web国語の窓

明治書院の国語教育webマガジン

MENU

著者解説『新入試評論文読解のキーワード300』

評論文読解のキーワード「人間」

1-2-6「人間」

「人間」は、現代文の最重要テーマの一つです。

——①~③では、「主体」と「個」について考えていきましょう。

①主体としての人間

 まず、人間が「主体」であること。
 
 それは、近代の《豊かさ》を人間自身が生み出したという実感や自信に裏打ちされたものであり、近代の世界観であるデカルト二元論の語るところです。

 肯定的に論じられるのか、否定的に論じられるのか、は文章によって違いますが、、、
 人間が「主体」であることが人間を語る上での出発点になります。

 しかし、人間が本質的に「受動性」をもっていることも忘れてはなりません。
 たとえば、世界的に猛威を振るったCovid-19ですが、その状況を私たちが受け入れるしかありませんでした。
 それに抗って少しでも病人や死者を減らそうとしたことはたしかでしょう。
 そうした逆境に立ち向かうことこそが人間の「主体性」です。
 が、私たちがこの世界で生きる以上、人間はこうした受動性から逃れることはできません。

②「個」であること

ⅰ)「個」の誕生?

 一人一人の人間を主体だと考えるところに「個人」が誕生します。

 でも、それは本当でしょうか。

 たとえば、家においしそうなケーキがあったら、それを食べたいと思うのは自然な欲望でしょう。
 その欲望は、その人個人の気持ちです。
 が、実際に食べるかどうかは、周りの状況によります。
 そのケーキが自分のおやつ用なら喜んで食べるでしょうし、来客用なら我慢するのが普通です。
 家族の一員として、それは当たり前ですよね?

 私たちは、常に「個人」であり、かつ、常に「社会の一員」なのです。
 しかし、貧しい時代には「社会の一員」であることが優先され、豊かな時代には「個人」を優先できることが多い、というだけでしょう。
 近代に「個人」が誕生するのは、それだけ近代が豊かになったからです。

ⅱ)個:主体的に社会を作り出す存在

 が、ここで注意しなければならないのは、近代の「個人」あるいは「個」という概念は、ただの〈一人の人間〉ではないことです。
 人間は人と人との間でしか生きられない以上、「個人」は、「主体」として社会を作り出す存在だと考えられていました。

 日本国憲法が想定しているのもそうした「個人」です。
 選挙権は、個人の権利であるとともに、主権者として国民の代表を選ぶ義務でもあります1
 それは、一人一人の国民が主体的に投票することで国家を作り上げる、と考えられているからです。

 世の中で一般的に使われている「個人」は、ただの〈一人の人間〉という意味であることが多いようです。
 しかし、現代文では、主体としての「個人」、つまり〈主体的に社会を作り上げる一人の人間〉という本来の意味で使われていることがしばしばありますので、注意してください。


1https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/6350.pdf

ⅲ)数としての個→匿名性

 民主主義は、こうした「個人」を前提としていますが、だからといって、それは「人間」を大切にしていることにはなりません。

 民主主義においては、人間はただの「数」にすぎません。
 その意味で、民主主義は近代の産物だと納得できるはずです。
 近代が求めたのは、量的な《豊かさ》なのですから。

 そこでは、一人一人の人間の能力や経験を一切考慮する必要がありません。
 「顔」も「名前」もありません。
 そう考えると、民主主義の延長上に、現在のネットの状況があるのかもしれません。
 たしかに、ほとんどの人が「匿名」のまま、無責任に、自分の意見を言ったり、他人をあげつらったりしています。
 が、もし私たちが質的な《豊かさ》を手に入れたいなら、何らかの形で「顔」や「名前」を取り戻す必要がありそうです。

③「個」と「社会」

ⅰ)近代以前:社会の一員

 近代以前、《貧しさ》のなかで生きていくために、人々はまず「社会の一員」として生きていたことでしょう。
 互いに助け合うことは《貧しさ》のなかでは大切なことでした。 

ⅱ)近代:個

 近代になって豊かになると、人々は自分のことをまず「個人」だと考え、その個人が主体的に作り上げるものこそ「社会」だと考えられました。

ⅲ)現代:私

 現代になって、より豊かになっていくと、、、
 私たちは、さまざまな社会や人々と広く浅くかかわるようになっていきます。

 たとえば、高校生なら、一日のなかで、家庭や学校のクラス、部活、塾と渡り歩き、さらには、電車やバスで通学したり、コンビニやコーヒーショップで買い物したり駄弁ったり、、、

 そこでかかわる人たちすべてと濃厚な関係を築くことなどできるわけがありません。
 だから、自然と、その場その場での自分の役割、キャラをうまくこなしていくことが求められるようになります。
 その一方で、SNSやスマホアプリなどを通じて、名前も顔も知らない人同士がつながりあうという現象も普通になっています。

 そうした一時的な関係性や匿名の関係性は、「社会」という概念でとらえきれるものなのでしょうか。
 そこに集う人たちを「個人」という概念でとらえていいものでしょうか。
 「個人」とは、本来、〈主体的に社会を作り上げる、一人の人間〉です。
 現代人がそうした社会性を失っているならば、それはもはや「個人」とは呼べません。 
 仮にそれを「私」と呼ぶことにすると、現代は「私」がその場の状況に合わせて離合集散することで成り立っているといえるでしょう。

 現代病ともいえる「アイデンティティの危機」は、こうした人間関係の希薄さが引き起こしたものです。
 自分を実感するためにはたしかな他者とのかかわりが必要だからです。
 そうした状況を逃れようとして、私たちは「親密」な仲間や生きがいを求めます。
 しかし、そううまくいかないからこそ、キャラを演じて、その場をやり過ごそうとするのでしょう。
 しばしば「公共」の問題が論じられるのも、本来の意味での「社会性」が希薄になった現代において、もう一度、公的な人間関係を問い直そうという試みだといえます。

 

——➃~⑥は、「自由」と「平等」を取り上げます。

 かなり重いテーマで、一部の大学しか出題されませんが、出されたときは真正面から問われるテーマなので、手加減しないで論じます。

④「自由」であること

ⅰ)自由とは

 どこかのお店にランチを食べに行って、メニューを見ると、料理が1種類しかなかったとします。
 もちろん、君はそれを頼むしかない。
 それを「自由」だと思いますか?

 では、2種類なら? 3種類なら?
 種類が増えると、その分「自由」度が増す感じです。

 「自由」とは選択肢があって、自分で選べることでしょう。

ⅱ)自由からの逃走

 しかし、もし料理の種類が100も200もあったら?
 何頼んでいいか、わからなくなります。
 で、思わず、店員に「お勧めは?」と聞いてしまうかもしれません。

 選択肢が多すぎると、私たちは選べなくなって、自分から選ぶ権利を放棄してしまうようです。
 これを「自由からの逃走」といいます。

ⅲ)枠組みの必要性

 選択肢が少なくても自由でないし、選択肢が多すぎても自由を手放してしまう。
 自由が自由であるためには、適度な「枠組み」が要るわけです。

 たしかに、、、
 何でも好きなことを作文しなさい。と言われると困りますが、
 最近楽しかったことを作文しなさい。と言われると書きやすいですよね。

 「自由」を論じられるとき、必ずのように「枠組み」論になります。
 しかし、、、
 みんなが納得するような「枠組み」――なかなか難しそうです。

⑤差別

ⅰ)《される》側の論理

 過激なことを言うようですが、、、
 「差別」は決してなくなりません。

 というのは、「差別」が、まず第一に《される》側の意識の問題だからです。
 《する》側に差別するつもりがなくても、《される》側が差別だと感じれば、そこに「差別」は存在します。

ⅱ)《する》側の論理

 では、なぜそのようなことが起こるのでしょうか。
 《される》側の思い過ごし? 自意識過剰? そもそも精神的に病んでる?
 もちろん、その可能性もあります。
 がそれ以上に、《する》側のその行為がその社会では当たり前すぎて、《される》側が傷つく可能性に気づけないからです。

 たとえば、妻を「嫁」と呼ぶのが男性による女性差別だとわかりますか。
 夫を「主人」と呼ぶのが女性自身による女性差別だと気づきますか。
 デートの時男性が女性におごるのを普通だと思っているとしたら、それは女性差別であり、さらに男性差別でもあること、わかっていますか。
 それがわからないところに「差別」は生まれます。
 いや深刻なのは、そうした差別的発言や行為を男性だけがやっているのではなく、女性もまたそれを受け入れ、やっているというところです。

 ジェンダーギャップ指数というのをご存知ですか。
 世界経済フォーラムが毎年発表する男女格差のランキングですが、
 23年日本は、146カ国中125位でした。

 本当に日本ってそんなに男女差別ひどいの? と思った人。
 それがたとえ外から見てひどく差別的であったとしても、その中で暮らしている者にとって、日本の男女のあり方は普通で当たり前なものにすぎません。
 実際には、そうしたあり方にモヤモヤしている女性も男性もかなり多いはずです。
 少なくとも、私は、妻を「嫁」扱いする男を見るとムカムカします。
 夫を「主人」と呼ぶ女性に対して「かわいそうだな」と思います。
 が、それはほとんどの場合、モヤモヤやムカムカのままで終わるでしょう。
 いや、終わらせるでしょう。
 君たちも、「嫁」や「主人」という言い方のどこがおかしいの? と思っている人いませんか。
 そうわからない人はわからないんですよ。
 自分が差別していることが。
 だから、言ってもしかたない。
 と飲み込むのが、常識人としての生き方です。

 そう考えると、17年アメリカでの「#Me Too運動」、19年日本での「#Ku Too運動」は女性たちの勇気ある行動であり、数少ない成功例だといえます。
 モヤモヤをモヤモヤのままにせず、社会的に排斥されることを恐れずに、差別を言語化し、社会に認めさせたのですから。

ⅲ)社会的な構造 

 ただ、問題を矮小化してはなりません。
 こうした差別は、特定の個人やグループの問題ではなく、それを容認してきた社会全体の問題です。
 社会的に当たり前のことだと思われているからこそ、そこに現にある差別的行為や状況が認められない。
 というか、当たり前だと思っているからこそ、人々はそうした差別を助長してしまう。

 差別は社会的な構造の問題であり、それによって傷つく《される》側の意識の問題なのです。
 だから、決してなくなることはありません。
 むしろ、差別がなくならないことを認めることが、差別を減らす ●●● 第一歩といえます。
 《される》側の意識が嗅ぎ取ったモヤモヤは、その社会の当たり前である以上、簡単に改変できることではないかもしれません。
 が、もし私たちがより平等な社会をめざすなら、《される》側が感じたモヤモヤに《する》側として敏感になることは、社会全体にとって決して損なことではないはずです。

 「いじめ」や「ハラスメント」は「差別」の一種です。
 だから、決してなくなりません。
 その理由、わかりました?

⑥平等の意味、自由の意味

ⅰ)自由と平等?

 人間は主体です。
 私たち一人一人が等しく ●●● 主体である、と考えられています。
 これを「平等」といいます。
 だからこそ、その一人一人が自分で考え行動してもよい、と考えるのが「自由」です。

 でも、よく考えてみると、何か変です。
 みんな同じだ、と言っておきながら、みんな違っていいよ、というのですから。
 「自由と平等」とよくいいますが、簡単に並べていいことではなさそうです。
 自由を優先すると平等が犠牲になり、平等を優先すると自由が犠牲になる。
 自由の国といわれるアメリカで格差や差別がなくならないのは、ある意味、しかたないことなのかもしれません。

ⅱ)理念としての自由/平等

 所詮、自由も平等も理念にすぎません。
 そうあってほしいという人類の願いといってもいいでしょう。

 人間すべてを主体と見なすことで、すべての人間が「同じ」になります。
 この出発点がまず問題です。
 身体的な優劣も頭脳的な優劣も、遺伝的に、生まれる前から多くの部分が決まっています。
 生まれた後の社会的な環境、露骨にいうと、親がお金を持っているかどうか、で子供の生活も将来もまったく違います。
 それを、人間としては「同じ」だ、という奇麗事でごまかしても、現実は変わりません。
 親ガチャ――はっきりあります。
 人間は決して平等ではないのです。
 ということは、人間は「同じように自由」ではありません。
 戦争状態の国に暮らしている人たちが、君たちと「同じ」だと思いますか。
 「同じように自由」ですか。

 こうした話は、他国の問題ではありません。
 「相対的貧困率」って知っていますか1。 
 相対的貧困とは、その国の生活水準からすると貧しい状態のことです。
 22年の統計では、日本は15%を越え、先進国で最悪です。
 ひとり親家庭では50%を越えているというから驚きです。

 そうした家庭の子供たちが、たとえば、君たちと同じ条件で大学受験できると思いますか。

 もちろん、生活保護や奨学金など、現在の社会が無策なわけではありません。
 が、だから、受験機会は平等だ、大学選びは自由だ、といえるでしょうか。
 ここで、社会の現状を批判しようとしているのではありません。
 自由や平等をただの理念に終わらさないためにも、現在、世界中で、その意味が問い直されていることを知っておきましょう。


1https://www.asahi.com/sdgs/article/14844785

1-2-7「自分」について


新入試評論文読解のキーワード300 増補改訂版
大前 誠司 編著
1,430円・四六判・328ページ

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 大前 誠司

    1962年徳島県生まれ。東京大学法学部卒。
    一般社団法人学びプロジェクト(manabi-project.com)代表理事。
    現在、あざみ野塾/あざみ野予備校、あざみ野大人塾などを運営。

関連書籍

ランキング

お知らせ

  1. 明治書院 社長ブログ
  2. 明治書院
  3. 広告バナー
閉じる