『精選 現代の国語』単元2「わかりあえないことから」解説
(早稲田大学講師 岸洋輔)
【解説】 平田オリザ著「わかりあえないことから」
本文に「私が、「これって結局、最初にオレが言っていたのと、ほとんど変わらないじゃないか」と言うと、議論の相手方(B)は必ず、「いや、これは二人で出した結論だ」と言ってくる。」(P27・11~13)という表現がある。なんとなく腑に落ちない。「私」(A)の意見に近いのに、なぜ「二人で出した結論」になるのか。それは、話の内容(意見)よりも、とことん話しあうというプロセスが何よりも重要だからである。これが「対話」である。例えば、ビートルズの曲はポール・マッカートニーとジョン・レノンで作られたことになっている。しかし、「イエスタデイ」などはポールが作った曲であるのは有名である。それを知らない日本のマスコミはレノンが亡くなったとき、彼の代表作として「イエスタデイ」を流していた。その曲をポールが作りグループに持ってきてビートルズの曲として作り上げたとき、ポールとレノンの共作になるのである。この教材でいう「対話」と同じである。時代は違うが夏目漱石が英国留学で知った個人主義という個性の強さの裏側にはこういう側面がくっついている。相手は自分と違う価値観(=個性)を持つという前提があるからこそ「対話」が成立するのである。その互いに違う個性が「対話」によって摺りあわさり「新しい発見」が生まれる。我が強いということとは違うのである。
本教材では「説明しあう」ことの必要性・重要性が説かれている。しかし、ソクラテス的対話(Socratic dialogue)と呼ばれるものがある。対話あるいは問答で有名な哲学者ソクラテスが弟子のプラトン等と繰り広げたものである。内容としては、本教材で説かれている「対話」と同じと考えてよい。その「対話」の三原則の一つに相手の意見に耳を傾けるというのがある。「説明をしあう」のであって「説明する」のではない。「察しあう・わかりあう日本文化」の裏側には「みなまで言うな」的感覚がある。しかし、それで本当に分かるのだろうか。分かったつもりになっているだけではないだろうか。「説明しあう文化」には、相手の説明をきちんと聞くことも含まれているのではないか。それは相手が自分とは違う価値観・考え方を持っているからである。最後まで説明を聞かなければ分からないのである。教材の内容とは直接にはかかわらないが、発展した読みとして生徒に考えさせたい。
また、このことは評論の読解にも言えることである。筆者の意見をきちんと読み取ること、これが最も重要である。これはこうなんだという自分の解釈で読まないということである。私はよく生徒に「文章によりそって読もう」と言う。「よりそって」とは文脈にそってという意味だが、筆者の考え方にまずはしたがって、あるいは理解して、という意味でもある。こうではなかろうかという憶測で読まない。たとえその評論が自分とは違った意見であったとしてもである。評論を読む楽しさはそこにある。新しいものの見方を発見することであり、自分の意見の確認、補強をすることである。
教材おすすめポイント
「対話」とは、話し合いで個々の読みからより深い読みを得ることでもある。それを知るのによい教材である。
⇒『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か 』(講談社現代新書)