評論文読解のキーワード「国家」
1-2-11「国家」
ここでは、「国家」についてお話します。
——まず、「国家」の本質としての暴力性について考えます。
一部の大学でしか出題されないテーマですが、出されるときは真正面から論じられます。
かなり踏み込んだ話をしていますので、覚悟してください。
説明を少しでも簡単にするために、日本国籍をもっていることを前提にしています。
暴力装置としての国家
ⅰ)暴力装置
国家とは暴力装置である――というと、国民の人権を無視する独裁国家を思い浮かべるかもしれませんが、そうではありません。
国家は、一定の地域を支配する政治権力です。
そこに住む人たちは、国家の意思に従うように強制されます。
買い物をすると、消費税、払いますよね。
これは、明確な暴力です。
消費税はいやだからといって、君たちは拒否できますか。
ⅱ)憲法
だから、そうした暴力は抑制的に用いられなければなりません。
そのために、「憲法」があります。
たとえば、日本国憲法は、前半で基本的人権を規定し、後半でそれを保障するための制度を規定しています。
憲法は、人権を制限しているのではなく、むしろ、国家という暴力装置から人権を守っているのです。
だから、私たちの自由や平等が侵されたとき、憲法こそが国家と戦う武器になります。
ⅲ)戦争
戦争は政治の一手段である、といわれます。
そもそも国家が暴力装置である以上、国家同士が衝突して、戦争に至る可能性は常にあります。
20世紀に起きた2度の世界戦争は、経済単位としての国家が富を求めて争った末の悲劇です。
が、グローバリゼーションが進む現代においては、その内部で具体的な戦争は起こりにくくなっています。
グローバリゼーションとは、世界全体が経済的に一体化していくことです。
生産も消費も、世界中の国々が互いによりかかりあいながら成り立っています。
だから、他国への攻撃が自国を経済的に痛めつけることになります。
東日本大震災の際も、日本の工場が止まることで、世界中の生産が停滞しました。
サプライチェーンという名の鎖で、世界中の工場がつながっているからです。
もちろん、だからといって、戦争の脅威がなくなったわけではありません。
経済的な損得だけで国家間の関係が語れるはずもありません。
それに、グローバリゼーションから外れた地域では、内戦や国家間の紛争がまだまだ続いています。
が、グローバリゼーションが戦争の可能性を引き下げたことはたしかでしょう。
——次に、「国民国家」についてお話します。
国民国家
ⅰ)3要件
近代国家は、「国民国家」と呼ばれます。
近代ヨーロッパに誕生した、この国家形態は、ヨーロッパが強大化するなかでデフォルトの国家形態となりました。
国民国家には、3つの要件があります。
主権(誰が支配者か)、領土(どこからどこまでが国の範囲なのか)、国民(誰が国のメンバーなのか)、です。
ⅱ)国民
「国民国家」という名前からわかるように、これまでの国家形態と最も違うのが「国民」です。
それまでの国家には「国民」はいません。
いたのは「被支配民」であって、国家への帰属意識などほとんどありませんでした。
97年のセンター試験に出た島崎藤村の『夜明け前』には、明治維新後の村人が日本国民という意識をまったくもっていないことを嘆く主人公の姿が描かれています。
でも、君たちはどうでしょう。
「あなたは何人ですか」と問われると、「日本人です」と国籍で答えますよね。
ということは、明治以降に大きな意識の変化があったということです。
そもそも、日本列島という広い地域に、一つの言語を共有する、一つの民族が暮らしている、などありえません。
現に、戊辰戦争の際、新政府軍では共通の話し言葉がなかったそうです。
だから、使われたのは書き言葉としての漢文。
漢文はアジア地域の共通語であり、寺子屋でも「読み書き」として教えられていました。
しかし、話もできないようでは「俺たちは同じ国の仲間だ」という意識を持てません。
だから、学校教育を通して、「日本語」を標準語として強制し、歴史や伝統を共有する同胞だと教え込むことで、「俺たちはこの国のメンバーだ」という民族意識を育てたわけです。
そうして生まれたのが国民です。
ⅲ)国家→民族
「民族自決」とは、「一つの民族が一つの国家を作る」べきだとする政治的な原理です。
が、歴史的な経緯は真逆です。
国家が民族を作る――国民国家成立の過程で、その国に住む人たちが「国民」として統合された結果、「民族」は生まれました。
もちろん、国家によって強制される民族意識を受け入れられない人たちも出てきます。
それが「少数民族」といわれる人たちです。
近代以前の日本には、さまざまな言語を話す、さまざまな人たちが暮らしていました。
明治になって、その大部分が「日本人」であることを受け入れました。
が、それを受け入れきれない人たちが、たとえばアイヌ民族として「少数民族」化したわけです。
ⅳ)想像の共同体
歴史的な経緯はさておき、現在、私たちは「日本人」という意識を共有しています。
だから、海外で日本人選手が活躍すると、同じ「日本人」として誇らしかったり、うれしかったりします。
会ったことも話したこともないのに「同じ共同体の一員」だと思い込んでしまう、このような状況を指して、国民国家はしばしば「想像の共同体」といわれます。
ⅴ)国民>国家
日本にはまだまだ世間という意識が残っているせいでしょうか。
国民は国家に従うべきだと考える人がかなりいるようです。
新型コロナ騒ぎの際も、国の「要請」が事実上強制される様子が見られました。
近代の社会観に従えば、社会とは、主体的に市民が作り出すもの。
ならば、国家こそが国民に従うべきです。
国民国家が想像であれ「共同体」であるならば、私たちは国民として、よりよき国家をめざして、国家に従うのではなく、主体的に参加していかなければなりません。
その方法がまずは選挙であり、そして、憲法に基づく告発です。
選挙で選ばれた国民の代表者が決めたことだから、と唯々諾々と従うのではなく、一人の国民として「それは違う」と声を上げることは憲法によって保障された権利です。
そうした少数者や弱者が声を発することができることこそ、憲法が求めている国家のあり方だといえます。
——「国家」の今についてお話します。
国民国家の限界
考えてみれば、国民国家は、あくまでも近代ヨーロッパに生まれた、特殊な国家形態にすぎません。
その成立は18世紀末フランス革命後だと考えられていますから、もう200年以上経った古くさい体制です。
現代の実情に合わない部分が目立ってきてもしかたないでしょう。
ⅰ)政治的な単位としての国家
政治的な単位として、国家は依然重要です。
国家間の問題は当たり前にしても、世界的な問題への実効性のある対処は、NGO(nongovernmental organization)やNPO(nonprofit organization)という組織にはなかなかできないことです。
曲がりなりにも存在するのが、世界政府ではなく、国連という国際組織であることは、現在の世界が国家という前提なしに成り立たないことを意味しているといえます。
ⅱ)経済的な単位としての国家
が、経済的な単位としては、国家は曲がり角に立たされています。
社会全体が豊かになるなかで、人々の暮らしを支える経済的な単位が「村」や「町」から「国家」へと移り変わったのが近代です。
より豊かになった現代は、「国家」の枠を越えて、人や物が交流する時代になったといえます。
それが世界化、グローバリゼーションと呼ばれるものです。
最近では、地方に行っても、東京と同じお店ばかりです。
地方に住んでいても、ネットを通じて、東京と同じものが買えます。
それを、地方も東京並になったと喜ぶ人もいるでしょうが、その地方としての特色が失われている状況は何か薄ら寒さを感じます。
経済の世界的な一体化は進んでいます。
が、その結果、世界が一元化を果たしてしまったら、それは本当に豊かになったといえるのでしょうか。
たとえば、GAFAM(Google・Amazon・Facebook・Apple・Microsoft)と呼ばれるアメリカの巨大企業は、データを通じて、実質、世界全体を支配しているとも言われます。
世界中どこに行っても同じサービスが受けられるというのは、一見すばらしいことです。
が、そのような多様性を失った世界に私たちは魅力を感じるでしょうか。
ⅲ)文化的な単位としての国家
近代国家が誕生することで、国家は文化の単位だと見なされるようになりました。
国民国家は、一つの言語を国民に強制します。
私たちは言語を通してこの世界を見ていますので、言語が共有されると、一つの文化をもつようになります。
が、それはあくまでも幻想です。
日本語と総称されても、実は、日本では方言と呼ばれるさまざまな言語が話され、そこにはさまざまな暮らしが営まれています。
日本文化と総称されても、実は、日本にはそれぞれの地域でそれぞれの文化が営まれているのです。
もちろん、国家が文化的な単位ではない、と言い切れません。
今では国家が主導する形で文化を輸出するということも起こっています。
その商業的な成功例がKポップでしょう。
日本でも、多くの、特に伝統文化といわれる分野で、文化が国によって後押しされています。
映画で、文科省選定作品と宣伝しているヤツ、あるでしょ。
人間国宝になるのは、伝統文化系の人ですよね?
が、それでは文化を語りきれない、と現在では考えられていると知ってほしいと思います。
詳しくは、「文化」と「言語」の項をご覧ください。
——「国家」の最後は、「国民」についてお話します。
国民であること
ⅰ)アイデンティティとしての国民
現在の国民国家で最も問われているのは「国民であること」です。
生まれつき、日本人である人はいません。
日本人であるかどうかなど、法律が決める、ただのレッテルにすぎません。
でも、、、
日本人の父と台湾人の母をもつ少女が、自分は結局何人なのか、思い悩んでいたのを、私は知っています。
「金(キム)」という名字をもつ少女を「金(キン)」と呼んで傷つけてしまった経験が、私にはあります。
「自分が何国人であるか」は、現代人のアイデンティティを根強く、そして根深く縛っているようです。
ⅱ)特権としての国民
だからでしょうか、「国民であること」は特権化しがちです。
日本で暮らしているのは日本人だけではありません。
多くの外国人も暮らしています。
少子高齢化によって人口が減っていく日本では、社会を支える働き手としても、同じ国に暮らす仲間としても、在留外国人はとても大切なはずです。
にもかかわらず、外国人をどう受け入れるか、十分に議論が進んでいるとはいえません。
劣悪な労働環境、不法滞在者の処遇など、多くの問題が解決されないままです。
そこには、ごまかしようのない外国人差別があります。
日本の法律では、日本で生まれ育ち、日本語しかしゃべれなくても、両親が外国人の子供は外国人のままです。
それがいわれのない差別を生み出すのは、特別永住者、いわゆる「在日」と呼ばれる人たちに対する一部の日本人の態度を見ても明らかです。
もし、「日本人であること」は偉い、と思っているとしたら、大きな勘違いです。
しかも、その最も面倒くさいところは、そう思っている本人がそれを「愛国心」だと思い込んでいることです。
ⅲ)移民
このような自民族中心主義、エスノセントリズム(ethnocentrism)は、日本だけの問題ではありません。
むしろ、移民政策をとってきた国々でこそ、グローバリゼーションの反動として起こっています。
ただ、そうした国の状況はもっと複雑です。
そもそもが移民の国であるアメリカで、移民の排斥を声高に主張する大統領が誕生しました。
が、その一方で、一部の不法移民は合法化されています。
そうした移民なしでは、アメリカ社会が成り立たないからです。
これまで移民に寛容であったEU。
近年、移民や難民が大量に流入したせいで社会的な不安が高まり、移民の受け入れが規制されるようになりました。
移民たちが自分たちの生活を脅かしている、と主張する政治家や政党が大きな勢力になりつつあります。
フランスでも、現在、不法移民や難民は厳しく排斥されています。
が、その一方で、サッカーの代表選手の顔ぶれには移民出身者が並んでいます。
そこには、もとからの国民も、国籍を取得した移民も、在留を許可されただけの移民も、それすら許されなかった不法移民もいます。
隣人として移民を受け入れながら、他者として移民を排斥する――こうした複雑な状況が欧米では起こっています。
が、それが人権を蔑ろにし差別を助長しているのなら、「国家」のあり方自体を問い直す必要があります。
ⅳ)国籍
ところで、、、
ラグビー日本代表に多くの外国人が含まれていることは知っていますか。
ラグビーでは、国の代表として、国籍が絶対条件ではなくなっています。
現在、日本では、約30組に1組が国際結婚だそうです。
その子供をハーフと呼ぶのか、ダブルと呼ぶのか、それともミックスと呼ぶのか。
そういえば、活躍するスポーツ選手にそうしたルーツの人が増えていますね。
だんだん、世の中は、国籍にこだわらない方向に向かっているのかもしれません。
が、「無国籍」は根本的に違います。
無国籍とは、どの国家にも属さず、どの国家からも保護されない、ということです。
無国籍のために空港外へ出られず、18年間空港内で暮らした男性の実例もあります。
日本では、家庭内暴力、DV(domestic violence)から逃れるために、女性が子供の出生を届けないケースもあります。
行政が把握するかぎり救済措置はあるようですが、本来日本人であるはずなのに、親の事情で、国家からの正式なサービスも保護も受けられないのは、子供の人権を踏みにじる事態でしょう。
人間であることと国籍は関係ありません。
が、現実問題として、日本を見ても、世界に目を移しても、人権と国籍とは深く結びついているようです。
これからの「国民」のあり方を問うことは、社会を運営する人口が減っている日本では、喫緊の問題だといえます。
外国人や移民、無国籍について考えることは、その大きなヒントになるはずです。
大前 誠司 編著
1,430円・四六判・328ページ