評論文読解のキーワード「言語/言葉」
1-2-15「言語/言葉」
ここでは、「言語」についてお話します。
——まず、「分節行為」。その前半です。
分節
ⅰ)生きるか死ぬか
賞味期限が切れた食品、食べますか?
「全然気にならないよ」という人もいれば、「絶対いや」という人もいるでしょう。
私は、基本、「全然気にならない」派ですが、あまりに古い場合は、少し食べてみてから決めます。
ここには、「食べるか食べないか」の区別がありますが、そもそも何でそんな区別が要るのでしょうか。
大げさにいえば、「生きるか死ぬか」にかかわるからです。
道を歩くときにも、「ここは歩いてOKかダメか」を区別しているから普通に歩けるのであって、そうでなければ、人やものにぶつかったり、車にはねられたりするでしょう。
すべての生物は、生きるためにこのような区別をしています。
それを「分節行為」といいます。
ⅱ)混沌→秩序化
「分節」とは何か、を考えるためには、、、
まず、この世界がもともとは混沌としているということを理解しなければなりません。
たとえば、毒キノコは、いつ、「ただの」キノコから「毒」キノコになったのでしょう。
毒をもっているかどうかなど、見ただけでは分からないはずです。
腹を空かした誰かが食べてみて、おなかを壊したり、死んだりした結果、それが毒キノコだと分かったと思いませんか。
私たちにとって、この世界のデフォルトは、「分からない」状況、つまり「分けられていない」状況なのです。
これを「混沌」、カオス(chaos)といいます。
でも、そのままでは、私たちは生きていけません。
この世界で「生きる」ために、そのキノコを食べてもいいか「分かる」状況にしなければなりません。
そのように、「生きる」ために世界を区分することを「分節」というわけです。
こうした「分けられた」世界を「秩序」、コスモス(cosmos)といいます。
ⅲ)恣意性
「生きる」ために、と何度も言っていますが、ここでいう「生きる」はかなり緩い話です。
たとえば、最近はやり(?)の昆虫食。
ゲッと思った人もいるでしょう。
でも、タイなどでは、スナック感覚で食べるところもあるようです。
日本でも、イナゴの佃煮がいまだに食べられていますし、戦時中は蚕も食べていました。
「食べられるか食べられないか」でいえば、昆虫は食べられます。
が、「食べたいか食べたくないか」でいえば、食べたくない人も多いでしょう。
こうした好き嫌いも、また一種の分節です。
分節は、きわめて恣意的なものなのです。
だから、「食べるか食べないか」一つとっても、人によって違います。
社会によって、時代によって、文化によって違います。
でも考えてみると、不思議ですよね。
海老や蟹って、海に暮らしている昆虫ですよ、いってみれば。
だから、コオロギの唐揚げ、かなりおいしいらしいですよ。
と言ってる私は食べませんが。
ⅳ)差異化/同一化
この世界は混沌としている、ということは、そもそも切れ目などありません。
たとえば、時間。
ここからここまでが1月1日、とか、人間の都合で入れた切れ目にすぎません。
が、その結果、12月31日と1月1日の「違い」が生まれます。
1月1日と1月2日の「違い」が生まれます。
この世界にもともと「違い」があるから分節しているのではなく、むしろ分節することで「違い」が生まれるのです。
これを「差異化」と呼びます。
実は、差異化すると、同時に起こることがあります。
それが「同一化」です。
たとえば、1月1日を他の日と差異化する裏返しとして、その日24時間は、同じ1月1日と見なされます。
この同一化は、名前のとおり、「自己同一性」、アイデンティティ(identity)と深くかかわっています。
自己同一性とは、たとえば、5歳の時の自分も、今の自分も、同じ一つの「自分」だと思うことです。
その裏側で、「自分」を他者と区別する差異化が起こっています。
この差異化/同一化は、「記号」のところでまたとりあげます。
ⅴ)世界認識
この世界はもともと混沌だから、生きていくために、この世界を分節して秩序を作り出さなければならない、ということはわかったでしょうか。
確認しておきたいのは、分節はただ世界をバラバラにすることではない、ということです。
生きるために区切るのだから、その区切られた部分は人間の生と深く結びついています。
人間の生にとって意味をもったものになるのです。
分節とは、この世界が私たちにとってどのような意味をもつのか、という世界認識そのものだといえます。
——「分節行為」の後半です。
ここでは、人間が行う分節の特徴についてお話します。
ⅵ)名付け
分節は、この世界で生きるすべての生物が行っています。
それは、普通、遺伝的に組み込まれた本能で行われています。
が、そこに言語がかかわるのが人間です。
私たちは、自分の生と深くかかわる部分を世界から分節し、それに名前を付けます。
こうして分節された中身が「概念」であり、付けられた名前が「言葉」です。
こうした名付けの場面は、日常的に見られます。
たとえば、ペットショップで飼い犬を探すとき。
ペットショップにいる犬は、もともとただの 犬です。
が、そのなかに気に入った子がいると、分節されて、特別な 犬になります。
そして、「わが家の一員」として特別な思い入れが込められて、名前が付くわけです。
ということは、、、
君が名前を持っているのも、両親の生にとって特別だからこそ分節され名付けられたということです。
さて、そこには、どんな思いが込められているのでしょう。
ⅶ)言語→分節
といっても、自分が名付けたものなどわずかで、私たちは、すでに言語のある世界に生まれてきて、それを身につけていきます。
では、私たちが言語を学ぶとはどういうことなのでしょうか。
たとえば、幼い子が「ワンワン」という言葉をお母さんに教えられると、教えられたからといってすぐに使えるようになるわけではありません。
散歩中に見かけた動物に対して、たとえば猫を見て「あれはワンワン?」と聞くかもしれません。
近所にいるセントバーナードを見て、「あれはワンワン?」と聞くかもしれません。
その繰り返しのなかで、その子は、「ワンワン」という言葉が世界のどこからどこまでを区切る言葉なのかを学んでいきます。
言語を学ぶとは、その言語がどのように世界を分節しているのか、を身につけるということです。
私たち人間にとって、言語こそが世界の見え方を決定するものだといえます。
ⅷ)言葉がものをあらしめる
たしかに、言語はコミュニケーションの手段です。
が、言語道具説のように、言語をただの コミュニケーションの手段だと見なすのは誤っています。
人間の生にとって、言語は、世界認識とかかわる根本的なものなのです。
「言葉」こそが「もの」を生み出し、私たちに「もの」として認識させています。
たとえば、Kポップ好きの人は、いろいろなグループ名や曲名を知っていることでしょう。
だから、それぞれのグループや曲が区別できます。
が、関心のない人にとっては、ひとまとめに「Kポップ」です。
もし気に入ったグループや曲があったとしても、名前を知らない以上、「Kポップ」の一つにすぎません。
名前を知ることで、区別ができるようになるのです。
逆に、名前のないものを私たちは認識できません。
「言葉」こそが「もの」をあらしめているのです。
ⅸ)現実=虚構
その意味で、言語は一種のメガネといえます。
メガネを通して見える世界はその人にとっての「現実」でしょう。
が、世界そのものではありません。
メガネによって歪められた世界です。
私たちにとって「現実」とは、言語によって作り出された、一種の虚構、つくりごとだといえます。
私たち人間がウソをつけるのは、ひどい言い方をすれば、そもそもがウソの世界の住人だからです。
でもだからこそ、言葉を使って新しい世界を作り上げることもできる。
フィクション(fiction)が虚構を意味し、小説を意味することは知っていますよね。
人間はウソをつけるからこそ、小説を書けるわけです。
ⅹ)言語=文化
私たちが言語というメガネをかけて世界を見ているなら、かけるメガネによって世界の見え方は千差万別のはずです。
とわかっていても、これがなかなか外せない。
英語の勉強の時にそれを実感しませんか。
たとえば、私は、「brother」という語を聞くたびに、「『兄』なのか『弟』なのか、はっきりせぇー」と思います。
日本語というメガネを外せないまま英語の世界を見るから、このように思ってしまうわけです。
日本語を通して見た世界と英語を通して見た世界が違う――考えてみれば、当たり前です。
逆に、言語が共有されると、世界の見え方が共有されます。
「文化」とは〈人間の生の営み〉を空間的な広がりのなかで共時的にとらえることです。
ある地域に一定の文化の広がりが見られるのは、こうした言語の共有があるからです。
言語こそが文化を生み出すのです。
しかし、私たちの見ている「現実」が唯一絶対のものではありません。
私たちは、自言語、自文化というメガネを通して、世界を見ているのであって、それがさまざまな世界の見え方の一つにすぎないことを自覚する必要があります。
それができないとき、私たちは、自民族中心主義に陥り、異文化に暮らす人たちを無自覚に傷つけることになります。
ⅺ)言語の獄屋
が、そのメガネは簡単には外せません。
人間は、まさにホモ・ロクエンス(homo loquens)、〈言葉をもつ人〉です。
人間は、言語を通して世界を見るようになり、言語なしで生きていくことができなくなりました。
このように言語の世界から抜け出せなくなった人間のあり方を「言語の獄屋」とか「言語の呪縛性」という表現でしばしば表します。
そのような牢獄からどうやったら抜け出せるのでしょうか。
と考えることも、また言語を介しています。
たとえその牢獄から抜け出せたとしても、その先にあるのは「分からない」世界、「分けられていない」世界です。
そんな世界で、はたして私たちは生きていけるでしょうか。
特に芸術の分野で、言語の向こう側にある世界を描き出す試みはされています。
が、決して簡単なことではない。
だから私たちができることは、私たちがせめてやらなければならないことは、自言語、自文化から見た世界を絶対化しないことでしょう。
身近に異言語、異文化にあふれる現代だからこそ、求められていることです。
——次は、「記号」です。
「記号」は文章中にいきなり出てくるので、その意味が普通にわかるようになってほしい語です。
記号
ⅰ)記号=意味
次のA、B、二つの絵を見てください。
Aは、「プラス」とか「10」に見えますよね。
じゃあ、Bは?
意味がわかりますか。
このように、意味の見出せるものを「記号」と呼びます。
私たちは、さまざまなものに「記号性」を見出します。
たとえば、私たちは、どんな服を着ているかで、その人がどのような人かわかります。
警察官の制服を着ていれば、その人を警察官だと思います。
男性がスーツにネクタイをしていたら、サラリーマンだと思うでしょう。
私たちは、目の前の人の服装や表情にさまざまな意味を見出します。
人の服装や表情もまた記号性を帯びている、といっていいでしょう。
ⅱ)記号の構造
でも、私たちは、その意味を直接 見ているわけではありません。
実際に 見ているのは、絵であり、服装であり、表情です。
それを「記号表現」といいます。
「表現」というように、感覚でとらえられる部分です。
言語も記号ですので、音声言語は耳で、文字言語は目で、点字は指でとらえることができます。
それをあるルール、「コード(code)」に基づいて解釈する。
そこに、意味が生まれます。
それを「記号内容」といいます。
記号内容は、記号表現をコードに基づいて解釈したものですので、同じ記号表現でもコードが変われば記号内容は変わります。
先ほどのAを、数学というコードで読めば「プラス」となり、漢字というコードで読めば「10」になるのは、そのせいです。
ここでいう記号表現が分節のところでとりあげた「名前」であり、記号内容が「概念」です。
が、たとえば机が「つくえ」と呼ばれることに必然性はありません。
「プラス」を「+」という形で表す必然性はありません。
この2つの結びつきはきわめて恣意的です。
それをまとめあげるのがコードです。
コードは、ただ個々の記号表現と記号内容を結びつけるルールではなく、そうしたルールの総体、体系的なルールです。
机が「つくえ」と呼ばれ、椅子が「いす」と呼ばれ、壁が「かべ」と呼ばれる、、、そうしたルールの総体こそが日本語という言語を作り上げています。
この世界をどう分節するか、それにどのような名前を付けるか、は恣意的です。
それを取りまとめているコードももちろん恣意的です。
言語や文化は恣意的なものなのです。
ⅲ)差異化/同一化
言葉は差異である、と言われます。
私たちは、この世界を分節し差異化することで、言葉を生み出します。
言葉とは「違い」なのです。
それがよくわかるのが、いわゆるブランドです。
これはロレックスです、と言われたり、ベンツのマークを見たりすると、何か高級な感じがしますよね。
メーカーが新製品を名付けるとき、新しい名前を付けるのか、旧製品と同じ名前を付けるのか、によって、アピールポイントが変わります。
新しい名前を付けると、これまでにない新しさを感じます。
同じ名前を付けると、旧製品と同じ信頼性を感じます。
このように、名前を変えれば差異化が働き、逆に名前が同じだと同一化が働きます。
ⅳ)言語=差異の体系?
言葉が差異ならば、言語は差異の体系です。
しかし、本当に、言語の本質は差異でしょうか。
「違い」にばかり注目してしまうと、そもそも言語のもっていた、生との深いかかわりが見失われます。
言語は、人間が世界を分節した結果生まれてきます。
言葉には、人間の経験が込められています。
だからこそ、人間の生とのかかわりが薄くなると、言葉は死にます。
3年前の流行語大賞、覚えていますか。
流行語が数年で命を失うのは、それがただの流行にすぎず、人間の生とのかかわりがそれほどないからです。
——最後に、言語と国家の関係、特に近代における国民国家との関係についてお話します
「国語」と深くかかわるので、少し脱線して、古文や漢文にも触れましょう。
国家との関係
ⅰ)日本語
言語と国家がかかわるのは、近代だけのことではありません。
たとえば、中国が歴史的に「中心の国」たりえたのは、漢字のおかげです。
広大な地域にさまざまな人たちが暮らし、さまざまな言語があったわけですが、時間的にも空間的に変わらない文字言語が一元的な支配体制を築いたわけです。
ただ、それは、支配者の言葉であり、書き言葉でした。
日本でも、江戸時代まで、公文書は漢文で書かれていたことは知っていますよね。
しかし、近代になると、まったく事情が変わります。
国家に属する以上、国家語、つまり国語を使え、と強制されるようになりました。
言語を共有することは文化を共有することです。
話が通じるだけでなく、ものの見方や考え方も共有されます。
一つの言語をもっていることが、一つの民族であるという意識を育てるわけです。
こうした民族意識をもつことで、国民は誕生します。
近代に国民国家が成り立つためには、そのほとんどの国で国語が強制されました。
日本も同じ歴史をたどります。
ただ、日本がしんどかったのは、そもそも日本語といえるような言語がなかったことです。
たとえば、明治初期の政治家森有礼は、英語を標準語にしよう、とまじめに提案しました。
文学史を繙くと、「言文一致運動」というのが出てきます。
現在日本語といわれている言語は、漢文と東京山手の言葉がベースになっているといわれます。
漢文という書き言葉と山手の話し言葉をすりあわせていって日本語は誕生したのです。
それが「標準語」として学校教育を通じて強制されていきます。
私たちが「方言」と呼んでいるものは、それぞれの地方の言語と標準語が混じり合ってできた、いわゆるクレオール語です。
東京を中心、地方を周縁と見なして序列化する発想は、近代日本だけでなく現在も根強く残っています。
そうした発想のなかで、標準語は正しい言語であり、方言はそれが訛った言語だと考えられました。
クレオールや中心/周縁については、「文化」の項を確認してください。
ⅱ)国語?
考えてみると、「国語」という科目は奇妙な科目です。
「現代文」「古文」「漢文」という異なる3つの言語が教えられています。
それを強引に一つの科目にしているのには、何か思惑がありそうです。
【古文】
「古文」が国語なのは、古文が現在の日本語の源流であり、かつての日本の姿が描かれていると見なされているからです。
古文の勉強の中心は、平安時代の貴族の文章です。
君は、ちゃんと関西アクセントで読んでいますか。
関西弁を関東アクセントで言うと、気持ち悪く聞こえますよね。
平安時代の古文は、京都の言葉なんだから、明らかに関西弁です。
私は、四国の徳島で生まれ育ったので、古文の勉強にかなり有利だったと思います。
自然と関西アクセントで読んでいましたし、古文単語として習う言葉を日常生活で普通に使っていたりもしました。
私が高校生だった40年以上前、京都アクセントで読んだ『源氏物語』がわかりやすいと評判になったのを記憶しています。
先ほども述べたように、現在の日本語のベースは山手の言葉です。
東の言葉が現在の日本語の多くを成り立たせている、ということです。
江戸時代の文章が読みやすいのは、時代が近いだけでなく、東の言葉だからです。
では、平安文学は、、、1000年も前の西の言葉。
同じ文字で書かれていることを根拠に、現在の日本語と似ている、と思うのは勘違いです。
英語と同じく異言語だからこそ、文法を一から習っているのだ、と気づいてください。
古文は舐めていると、まったく上達しませんよ。
結果的に、古文は、日本語の源流と言いきれないところがあるわけですが、現在の国家体制の正当化、という意味では、日本史と同じ役割を担っています。
【漢文】
「漢文」が国語なのは、近代日本成立時、日本全国で通じる唯一の言語だったからです。
日本というより、アジア地域の共通語でした。
いわゆる寺子屋で教えられていた「読み書き」はこの漢文です。
古文とは逆に、漢文は現在の日本語のベースになっていますので、漢字の羅列にくらくらしてしまうのを乗り越えると、意外と意味がわかります。
がんばって、書き下し文を音読してみましょう。
実は、かなり点数のとりやすい科目ですよ。
【現代文】
「現代文」は、明治以来の標準語政策、つまり日本語を教えるための科目でした。
そもそも「標準」といっている時点で、標準じゃない、さまざまな言語があったことがわかります。
現在、話し言葉も書き言葉も含めて、全国で「一つの日本語」が使われていると感じるならば、それは明治以来の国民教育の賜物だといえます。
ⅲ)ナショナルアイデンティティ
が、それほどに浸透したのは、マスメディアの発達もありました。
日本全国どこでも、テレビからは標準語が流れています。
それを幼いときから耳にしている人たちにとって、それが押し付けられた言語だなどと感じるはずもありません。
むしろ、日本人なら当たり前に話せるはずの言語だと思われています。
最近、スポーツの世界では、日本語を話せない日本代表選手を見かけます。
それを見て、「あいつ、ほんとに日本人?」と眉を顰める人もいます。
私たちのなかでは、日本人であることと日本語を話せることが深く結びついているようです。
日本人であるというナショナルアイデンティティは、国語である日本語と分かちがたい関係にあるのです。
ⅳ)小さな言語/大きな言語
現在、日本で、日本語が通じない場所はありません。
ということを悪いことだと思う人はいないかもしれません。
が、その意味はわかっているでしょうか。
近代になって、さまざまな地域からさまざまな言語が失われました。
それは、その地域ならではの暮らし、つまり文化が失われたということです。
今、日本にはいくつの言語があるか、知っていますか。
ユネスコによれば、9つ。
日本語以外の8つの言語が消滅の危機にある、といわれています。
そうした消滅の危機にある「小さな言語」は、国家語という「大きな言語」の前にして、その存在意義が問われています。
「小さな言語」を守るということは、その言語の担っている暮らしを守るということです。
が、近代の《豊かさ》の前で、それを貫けるのか。
しかも、もし「小さな言語」がその危機を訴えるとしたら、結局「大きな言語」に頼るしかありません。
「小さな言語」で訴えても、その意味を理解する人がいないのですから。
近代化のなかで、さらに、現在はグローバリゼーションのなかで、世界は一つになろうとしています。
「英語は世界の共通語」などといわれます。
今、世界は、国語である日本語よりもさらに「大きな言語」である英語にのみこまれようとしています。
が、それと引き換えに、私たちは自分自身の「何か」を売り渡していることも自覚すべきかもしれません。
大前 誠司 編著
1,430円・四六判・328ページ