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著者解説『新入試評論文読解のキーワード300』

評論文読解のキーワード「現実」

1-2-18「現実」

ここでは、「現実」についてお話します。
かなり思索的に語ります。
めんどくさいかもしれませんが、じっくり考えながらついてきてください。

VR&AR

ⅰ)VR

 「現実」とは何か、、、
 と考えはじめると、泥沼にはまってしまうかもしれません。

 目の前の部屋の様子。
 手に持ったカップの感触。
 返ってきたテストの点数。

 たしかに現実です。
 が、たとえば言語について学べば、この世界が言語によって分節された「つくりごと」
だとわかります。
 だから、私たちが「現実」だと思っているものは、言語によって作られた「現実ʼ」にすぎません。
 「現実(仮)」といってもいい。
 とかっこよくいったところで、飲んだコーヒーの熱さが消えるわけではありません。

 VR、「バーチャルリアリティ(virtual reality)」という言葉、知っていますよね。
 疑似現実とか、仮想現実と訳す言葉ですが、それはニセモノということではありません。
 現実ではないかもしれないけれど、現実同然のもの。
 私たちにとっての「現実」が言語によって作られた「現実ʼ」だとしても、結局、私たちにとっては「現実」そのものだということです。
 
 ただ、それがいかに「現実」に感じようが、世界そのものではないことを知らなければなりません。
 でなければ、言語によって、文化によって、この世界の見え方が違うことが理解できず、狭量な自民族中心主義に陥ってしまうからです。
 知っておかなければならないことは単純。
 私たちが「現実」だと思っているものは、「現実」としての一つの可能性、「現実」の一つにすぎない、ということです。

ⅱ)AR

 では、AR(augmented reality)は知っていますか。
 拡張現実と訳されます。
 某携帯ゲームで有名になりました。
 携帯の画面を通してみると、ソファの上にモンスターが座っていたりします。

 が、私たちは、以前から、すでに拡張された現実のなかで普通に暮らしています。

 たとえば、夜空を見上げると、煌々と照った満月を目撃して、、、
 あれは、月自体が光っているのではなくて、太陽光が反射しているだけだ、などと思いながら見ることがあるかもしれません。
 科学的な知識を重ねながら見る月の姿も、また現実です。
 が、それは科学的知識によって拡張されていませんか。
 
 いやそれをいうなら、月を見て、ウサギが餅をついているという人もいるでしょう。
 それって、ソファに座っているモンスターが見えるのと変わらないですよね。
 いずれにしろ、目の前の物事だけを見ているのではなく、その物事に重ねて何かを見ている以上、拡張された現実だといわざるをえません。
 そして、その目の前の物事も、重ねて見ている何かも、厳密にいえば、現実の1つのあり方、疑似現実にすぎません。

 VRやARをコンピュータの話だと思い込んでいる人も多いと思いますが、私たち人類は、たぶん、言語をもって以来、疑似現実を次から次へと生み出し、そして拡張してきたのです。

——現代における現実や日常のあり方について考えます。

リアルとバーチャルの間(あわい)

ⅰ)勉強って好きですか

 開発途上国の子供たちに教育を、というスローガンを聞いたことがありませんか。
 文字の読み書き、基本的な計算ができるようになることが、今の困難な現実を打ち破る一歩だからです。

 日本にこうした教育システムが誕生したのは、明治になってからです。
 近代国家として「国民」を育成する必要がありました。
 それまでのように、日々の生活に専念すればいいだけの被支配民ではなく、日本という国のメンバーとして、一緒になって国家を作っていく仲間になったのです。
 そのためには、国家と何か、世界とは何か、を知らなければなりませんし、国家や世界が今どのような状況なのか、も知らなければなりません。
 私たちの世界は、空間的に広がっただけではありません。
 過去に学び未来を切り開くという意味で、時間的にも広がりました。
 
 近代化とは、ただ産業化、工業化を進めて物質的に豊かになるだけでなく、そこに住む人たちが「自分はこの国の一員なんだ」「自分はこの世界の一員なんだ」という意識をもつように啓蒙することなのです。

 数学嫌いの人が、数学なんて人生に関係ない、といったりします。
 社会の様子や世界の動きに無関心な人も多いですよね。
 そもそも、私たちはそんなことを知る必要があるのか。
 もしそうだとして、それを知って私たちに何ができるのか。
 と思うかもしれませんが、こうした知識なり情報なりが私たちの世界を拡大してくれ、生きるための選択肢を増やしてくれます。

 そのように、世界と積極的にかかわり、世界や自分自身を変えていこうとする存在を「主体」と呼ぶわけです。

ⅱ)現実の二重性

 「現実」とは何か、を考えてくると、現実がいわば二重性をもっていることに気づきます。
 目で見える、手で触れられる、そうした実感のある現実。
 私たちは、そこで日々暮らしています。
 が、その外にも現実は広がっている、と私たちは知っています。
 それは、本やテレビやネットなど、メディアを通してやってきます。
 その「現実」は、自分自身の目や耳でとらえたものでないからこそ、気づかぬうちに客観性を帯びてしまいます。
 しかし、メディアというフィルターを通して見ている以上、現実の1つのあり方にすぎません。

 ヒロシマで投下された原爆。
 45年末までに14万人が死んだとされる悲劇です。
 が、アメリカでは、兵士のムダな犠牲を減らした作戦として好意的に評価されています。

 そのどちらもが「事実」」であり、「現実」なのです。

 第二次世界大戦の時、日本では、新聞やラジオが軍部に都合のいい情報を流し続けました。
 今でも、一部の国がそうした情報統制をして、国民を欺いている、とメディアで報道されています。
 こうした話は、昔の話でも他国の話でもありません。
 メディアや権力の誘導がいつしか客観性を帯びて、私たちの目を曇らせます。
 君が「現実」だと思っているものを否定しているのではありません。
 その「現実」は、ありうる現実の一つにすぎないと自覚しろ、と言っているだけです。

ⅲ)拡張された日常

 こうした現実の拡張は、日常を侵食していきます。

 たとえば、テレビでお笑い番組をやっているとしましょう。
 それを見て、思わず笑ってしまう、、、
 何の自覚もないかもしれませんが、思わず笑っているのは君だけではありません。
 テレビを見ている、お互いに知らない視聴者が一斉に笑っている、、、

 想像してみると、かなり気持ち悪い状況です。
 が、ここには、テレビを通してつながり合った集合体があります。
 しかも、無自覚のまま、強制的にその集団に参加させられています。
 君は、テレビを見る時、SNSで「いいね」を押している時、その一員になっています。
 これも、君たちの日常の一部です。

 こうした日常の複合性がより明確になったのは、SNSが普及したからでしょう。

 家族と一緒にテレビを見ながら、部活仲間と予定の確認をしている。
 ここには、何重にも重なり合った社会的な関係性が日常を作り出しています。
 1つは、家族関係。
 もう1つは、部活仲間との関係性。
 携帯と通じて関係性が成り立っています。
 3つ目は、テレビを通した、目に見えない集団性。
 オリンピックを観てるなら、それは世界規模の関係性です。
 これらが、同時並行的に成り立っているのが現代の日常です。

 これまでも、知識や情報によって拡張された現実が私たちの日常に大なり小なり影響を与えてきましたが、ここでは日常そのものが複合化し拡張しています。
 こうした日常の拡張は、今後、ますます進むことでしょう。

 たとえば、EC(E-commerce)と呼ばれる電子商取引。
 簡単にいえばネット通販ですが、これまでお店で買っていた品々をネット上で買うようになっています。
 インターネットは、当たり前に私たちの日常の一部なのです。

 今後はネット空間上に、バーチャルな町ができ、これまでリアルでしかやれなかったことも、リアルではできなかったことも行われるようになるでしょう。
 そうした試みはすでに始まっています。
 昔はただのゲームだったはずのeスポーツがスポーツとして認められているのも、そうした流れの一環です。

 しかし、もしネット社会が現実の一部として、日常の一部として組み込まれるなら、そこには一定のルールが必要でしょう。
 ネット社会は、匿名性が高く、その意味で、自由で平等です。
 それを、よくも悪くも、上からコントロールする存在がいません。
 といって、これまでリアルで通用していたルールをネット社会に当てはめようとするのは見当違いです。
 それでは、ネット社会のよさが失われてしまいます。
 が、それが人を傷つけ、リアルを混乱させてしまうなら、拡張された日常として受け入れていいはずもありません。

 既存のルールでは対応しきれない以上、それをどうするか、は、現代が早急に着地点を見出さなければならない難問でしょう。

——言葉としてほとんど出てきませんが、「フェイク」について考えています。

錯綜する「現実」

ⅰ)二分法の限界

 「ウィキペディア」、お世話になりますか。
 ネット上の百科事典として便利ですが、誰もが編集できるためにかなりアブナイことはわかっていますよね?
 それは、ウィキペディアにかぎったことではありません。
 ググって出てきた情報が必ずしも正しいとはかぎらない、というのは常識のはずです。

 ディープフェイクといわれる技術が使われると、普通の人には見ている映像がホンモノなのか、ニセモノなのか、の区別がつきません。
 ということは、ニセモノをホンモノだと思うこともあれば、ホンモノをニセモノだと思ってしまうこともあるわけです。

 さらに、生成AIは、学習した内容をもとにして、新しい文章や映像を作れるようになりました。
 AIの作った作品は、ただのコピーでないとしても、オリジナルといえるのでしょうか。

 現在のインターネットやAIの状況を見ていると、本当/嘘、ホンモノ/ニセモノ、オリジナル/コピー、そしてリアル/バーチャルなどと二分法的に考えることが本当によいのか、突きつけられているように感じます。

 私たちの「現実」は、現実の1つのあり方でしかない、といってきました。
 そもそも、私たちにとって「現実」とは、この世界で生きていくための方便にすぎません。
 だから、この世界で生きていくために必要な姿を見せてくれるだけでいいわけで、極論すれば、それが本当だろうが嘘だろうが、どうでもいいのです。
 そういえば、「嘘も方便」という言葉もあります。
 たとえば、科学を重視する現代の目から見れば、キリスト教を絶対化した中世の神の教えは嘘かもしれませんが、中世ヨーロッパに生きる人たちにとって必要な方便だったはずです。

 しかし、現代は、自分たちの狭い「現実」に閉じこもって生きていくわけには生きません。
 私たちがかかわる世界は今も拡大し続け、自分にとっての「現実」が唯一の現実ではないことを知らないわけにはいきません。

ⅱ)「分断」の先へ

 それを私たちに見せてくれる場こそ、ネット社会だったはずです。
 ネット社会は、さまざまな多様な情報が行き交う場です。
 だからこそ、インターネットの普及は、互いの多様性を認めあう、自由で平等な世界を生みだすと期待されました。
 が、実際には、社会の「分断」が深刻な問題としてもちあがっています。

 というのは、ネット社会が情報の取捨選択のできる場だからです。
 たとえば、テレビをつけると、自分にとって好ましい話もいやな話もニュースとして届きます。
 が、インターネットでは、見たくない記事は見なくてもいい。
 かかわりたくない仲間とはかかわらなくてもいい。
 SNSの発達は、人間の社会関係を大きく広げていくと思われましたが、実際は、自分と意見を同じにする仲間を広く集め、その中でのやりとりに終始することで、自分の意見の「正しさ」を確認することになりました。

 本来、他者とのかかわりは、他者という違う存在を認めることから始まります。
 が、むしろ、ネット社会では、同じ仲間のなかでぬくぬくと安住する傾向にあります。
 SNS上でも、ネットのコメント欄でも、同じような意見や感想が並びます。
 そこで反論しても、ある意味、空しいだけです。
 論理など通じません。
 ネット社会が一方的になりやすいのは、バズったり炎上したりすることを見てもわかります。
 いいか悪いか、敵か味方かで二分して終了。
 わかりやすくていいです。
 が、「違う」ということは、「=敵」ではなく、自らを高めるための契機になるものです。

 民主主義は、さまざまな意見があることを前提にしています。
 互いに違うからこそ、よりよい意見が新たに生まれてくる。
 そして、最終的には、ただ1つの「正しさ」などないから、多数決でとりあえずの決定をする、というのが民主主義です。

 が、自分の意見と違うものを敵と見なして社会を「分断」してしまうことが、民主主義のボスともいえるアメリカで顕著になっているのは憂うべき話です。
 自分にとっての「現実」を絶対視するところには諍いしか生まれないと思うのですが、、、
 私たちは、現在のアメリカの姿を反面教師にしたいものです。


新入試評論文読解のキーワード300 増補改訂版
大前 誠司 編著
1,430円・四六判・328ページ

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著者略歴

  1. 大前 誠司

    1962年徳島県生まれ。東京大学法学部卒。
    一般社団法人学びプロジェクト(manabi-project.com)代表理事。
    現在、あざみ野塾/あざみ野予備校、あざみ野大人塾などを運営。

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