web国語の窓

明治書院の国語教育webマガジン

MENU

著者解説『新入試評論文読解のキーワード300』

評論文読解のキーワード「科学」

1-2-4「科学」

「科学」は、現代文の最重要テーマの一つです。

——①では、まず「科学」を語る上で最も注意すべき点について確認しておきます。

①科学の社会的な責任

ⅰ)本当に安全ですか?

 現在、科学を語る上で最も大切なのは、「人間」との関係です。
 
 それを実感させたのは、やはりフクシマでしょうか。

 原発は何重もの安全措置がとられているから安全なんだ、と言われていました。
 でも、それを誰が確かめたのでしょうか。
 少なくとも、原発の周辺に住んでいる人たちに確かめる術はありません。
 専門家たちが言っていたから信じた、というだけです。
 それを「安全神話」と呼びます。

ⅱ)科学は人間とかかわらない?

 科学と人間との関係を語るために、もう一つ、面倒くさい言葉を紹介します。

 科学の「没価値性」。

 「没」とは水に沈んでなくなること、「価値」とは値打ち、という意味ですから、科学の「没価値性」は、科学には値打ちがない、、、という意味だと考えてはいけません。
 「値打ち」というのは、人や状況によって変わります。
 私がもし山盛りの新鮮なパクチーを見たら、匂いもかぎたくないので、思わず顔を背けることでしょう。
 が、それにわざわざお金を払って食べる奇特な人がいるのを私は知っています。
 人によって、パクチーの「価値」は違うのです。
 でも、私ですら、空腹で何も食べるものがなかったら、パクチーを食べるかもしれない。
 状況によっては、食べ物としての「価値」をもつ場合もあるということです。
 
 だから、科学の「没価値性」とは、科学の値打ちが人や状況によって変わらないことです。
 「価値中立性」という表現もありますが、意味としてはほとんど同じです。
 科学の「客観性」とか「普遍性」ともいいます。

 科学が明らかにしているのは、人間と無関係に成り立っている、この世界のしくみだから、科学は、世界のどこでも、いつの時代でも通用する、という話です。

 でも、それは本当でしょうか。

 科学がこの世界のしくみを解き明かすことならば、それを解き明かしているのは人間です。
 そして、解き明かしたしくみを使っているのも人間です。
 どこまでも、科学は人間とべったりな関係に見えます。
 その人間を引きはがすことなど、科学にできるのでしょうか。
 にもかかわらず、人間を無視するなら、科学は根本的な矛盾を抱えているといえます。

ⅲ)水戸黄門の印籠

 「水戸黄門」という昭和の時代劇をご存知ですか。
 黄門様の印籠には、江戸時代の支配者であった徳川家の家紋が入っているのですが、その印籠を取り出すと、それまで争っていた人たちが一斉に土下座します。 
 「科学的」という言葉は、その印籠のようです。
 それが通用しないことはフクシマで経験済のはずなのに。
 現に、「科学的」という言葉は、私たちの不安を払拭したり抑え込んだりするのによく使われます。
 そして、その「正しさ」をたしかめようがない私たちは、「科学的」という言葉の前に平伏してしまいがちです。
 
 科学が、現代社会の《豊かさ》に不可欠なことは否定のしようがありません。
 科学は人間生活と深く結びついているのです。
 だから、科学、および科学者は、人類や社会に対して大きな責任を負っていることを自覚すべきです。
 そして、それは、科学の恩恵を享受している私たちにもいえることです。
 「科学的」という言葉にごまかされてはなりません。
 私たちの生活を支えてくれているのが科学であるならば、科学に関することは他人事ではなく自分事なのです。
 そこに人間、つまり私たち一人一人がかかわっていることを忘れていけません。

 いやいや、専門的なこと、わからないし、と思った人。
 自分が何のために勉強しているか思い出してください。
 理科や社会、それに英語。
 ネットには、いくらでも君たちが読める日本語や英語の論文が転がっていますよ。

ⅳ)科学と人間をつなぐために

 といわれても、現実問題として、科学の専門的な知識など、なかなか縁遠いものです。
 その意味で、そうした専門知識を教えてくれる人が要ります。
 その役割を担わなければならないのがテレビや新聞を中心とするマスメディアであり、そこに登場する専門家や科学ジャーナリストです。

 が、いわゆる新型コロナや地球温暖化を巡る報道を見ると、かなり危うさを感じます。

 地球温暖化に関するIPCCのレポート、読んだことありますか。
 IPCCは、気候変動に関する政府間パネル、という国連によって作られた組織です。
 そのレポートのなかでは、将来的に不確定なことが多いので、いろいろな場合分けがされ、それぞれに確率の幅を設けて、可能性が議論されています。
 その可能性も、現在の研究でどれくらいたしかといえるか、項目によって違うので、「確信度が高い」とか「確信度が中程度」とレポートに表記されています。
 
 が、報道されるのは、最悪のケースばかり。
 視聴者を煽るような内容ばかりです。

 でも、私たち素人の側にも問題があるかもしれません。

 たとえば、ウィルスは死滅しなくても、十分に少なくなる ●●●●●●●● と病気にかかる可能性はほとんどありません ●●●●●●●●●
 コロナ禍の最中に、そう良心的な専門家たちが発信しても、「十分に少なくなる」ことを「完全には死滅しない」、「ほとんどない」ことを「ありうる」と読み替えて、マスメディアは危機感を煽っていました。
 そうした風潮に、「科学的」な説明はなす術もありませんでした。

 逆に、フクシマの原発事故は、可能性として十分にありました。
 それを専門家は丁寧に説明する必要がありました。
 そして、私たちもそれをしっかり理解する必要がありました。
 が、それをなぜか安全だと思い込んだ、、、
 
 新型コロナの場合は「科学的」に安全であることが無視され、フクシマの場合は「科学的」に安全であることが盲信された。
 こうした違いは、ある意味、無知から来る反応といえます。
 私たちはそれを十分に知ろうとしたのか、専門家たちはそれを十分に伝えようとしたのか。
 それを媒介することこそマスメディアの最大の役目であるはずなのに、実際は無知を助長するような報道を続けていたように思います。

 包丁を使えば、けがをすることはあります。
 科学を使えば、けがをすることがもちろんある。
 恩恵ばかりではありません。
 だからこそ、科学とは何か、私たち自身が十分に知る必要がありますし、マスメディアはそれを助けなければならないはずです。

 最後に、、、

 パクチー大好きな人、ごめんなさい。

 

 ——②では、脳死による臓器移植を例に「科学」を成り立たせている基本的な特徴を説明します。

まず、近代の世界観であるデカルト二元論から始めましょう。

②科学の基本的な特徴

ⅰ)科学とは、、、

 では、デカルト二元論を見てください。

デカルト二元論参考図

• 人間は、理性をもつ/精神的な存在であって/だからこそ主体となりうる。
• 自然は、理性をもたない/ただの物質的な存在であって/客体にしかならない。

という図です。
 乱暴にいえば、人間は、この世界のご主人様なので、奴隷である自然を好きに使っていい、という世界観です。

 でも、好きに使うためには、その使い方を知らなければなりません。
 新しいスマホを買っても、その使い方がわからないと使えないですよね。
 その使い方を明らかにするものこそ、科学というわけです。

 その意味で、科学は〈人間が自然を支配する手段〉だといえます。

 ところで、、、

 ドナーカード、もっていますか?

 正確には、臓器提供意思表示カードといいます。
 臓器を提供するかどうか、特に脳死になった場合どうするかを意思表示するもので、今では、マイナンバーカードなどでも意思表示できます。

 では、脳死って何でしょう。

 実は、国によって規定が違うのですが、日本では、全脳の機能不全、つまり、脳全体が働かなくなって、人間としての意識が失われた状態、をいいます。
 露骨にいうと、脳はダメになっているから人間として生きているとはいえないけど、身体は死んでいないから臓器は新鮮、という状態です。

 ここに、現在の科学の特徴がよく出ています。

ⅱ)唯物論

 まず、この世界はただの物質だと考えるのが「唯物論」です。
 たとえば、木造の仏像。
 その仏像を「仏様」だと思うのは私たちの心がそう思っているだけで、実際はただの木の人形にすぎません。
 そりゃ、そうだ、と思った人。そういう発想を唯物論といいます。

 ここで注意してほしいのは、人間の精神が別にあることです。
 精神の働きを「意識」といいます。
 仏像はただの木だけど、それを「仏様」だと見なしているのは意識。
 ということは、そう見なしている意識が仏像とは別にある。
 それはどこでしょう。
 今の科学では、それが「脳」だと考えられています。

 ちょっと、デカルト二元論に戻ってみましょうか。

 自然は、、、物質ですね。
 精神は、、、その物質から切り離されて●●●●● いることがわかりますか。
 脳自体は物質ですが、精神は、人間の脳に宿った特別なものだ、とされているわけです。

 さて、「脳死」です。
 脳の働きがすべて停止しているなら、そこにはもう意識はなく、人間として死んでいることになります。残っているのは、ただの身体、ただの物質です。
 そこから、動いている心臓を取り出したところで、殺人にはならない、というわけです。

ⅲ)要素還元主義

 何かが起こるには、必ずその原因がある。
 その原因を単純に一つのものに求めようとするところに「要素還元主義」の特徴があります。

 たとえば、インフルエンザ。
 その原因は、、、インフルエンザウィルス、といわれています。
 が、実際には、ウィルスは原因の一つ ●● にすぎません。
 体質、体調、免疫の状態によって、たとえウィルスに感染しても、発病しません。
 いやいや、根本原因はやっぱりインフルエンザウィルスでしょ!
 と思うあなた。

 まさにインフルエンザウィルスという一つの要素に還元して、その病気を捉えていることに気づきましょう。
 さまざまな要因が絡んで発病しているからこそ、インフルエンザの治療はウィルスをやっつけることだけではありません。
 体全体の免疫を上げることも立派な治療法です。

 この世界が原子からできている!
 生物が遺伝子からできている!
 地球温暖化は二酸化炭素のせいだ!
 どこかに本当の自分がある!

 全部、要素還元主義です。

ⅳ)機械論

 唯物論と要素還元主義から「機械論」が導かれます。

 たとえば、時計はどうして動くのでしょうか。
 それは、針を動かすしくみがあるからでしょう。
 現に、時計の中を見ると、小さな部品が組み合わさって、針を動かすようになっています。
 では、猫はどうして動くのでしょうか。
 それは、生きているから、、、と科学では考えません。
 デカルト二元論に戻ると、そもそも、猫は、、、人間のはずはないですから、自然であって、だから物質です。
 猫を殺すと、日本の刑法では何罪になるか、知っていますか。
 窓ガラスを割るのと同じ罪、器物損壊罪です。
 だから、猫が動くのは、時計と同じく、手足を動かすしくみがあるからであって、現に、猫の中を見ると、筋肉や骨が組み合わさって、手足を動かすようになっています。

 このように、この世界はしくみからできている、と考えるのが機械論です。
 この世界はただの物質であると考える唯物論と、単純な因果関係から成り立っていると考える要素還元主義を前提にしていることに気づいてください。

 さてさて、「脳死」。
 脳死になると人体はただの物質だから、そこから使える部品を取り出して、他の人に移植する。
 まさに機械論的な人間観、人体観に基づいて行われていることがわかります。
 ちなみに、脳死になっても、人体はもちろん生きているので、臓器を取り出す際に脳死体は痛みを感じます。
 だから、暴れ出さないように、モルヒネを打ったり麻酔をかけたりして臓器を取り出すことは知っていますか。

 、、、少し怖い話をしてしまいました。

 科学は、この機械論に基づいて、自然のしくみを明らかにしようとしているのです。

 つまり、科学とは、、、
 〈人間が自然を支配するために、自然のしくみを明らかにしようとする営為〉であるといえます。

——③では、「蓋然性」という面から科学を考えます。

③蓋然性の高い仮説の体系

ⅰ)「観察」→「仮説」→「実験」

 そもそも、雨はどのようなしくみで降るんでしょうか。
 太陽熱で、大地や海が熱せられて、、、
 水が水蒸気になって、、、
 暖かい空気として空に上っていき、、、
 雲になって、、、、、、、、、

 でも、そのしくみ、目に見えませんよね?
 どうやってわかったのでしょう。

 簡単に言ってしまえば、、、
 まず雨をよく観察して、そのしくみを予想し、それが正しいかどうか、実験で確かめてみる。
 で、ダメだったら、また予想し直して、実験する。
 その繰り返しが、雨の降るしくみを突き止めたのです。

 ここで大切なことは、見えないからこそ、こうじゃないかな、と予想しているところです。
 これを「仮説」といいます。
 ひどい言い方をすれば、あるかどうかわからないしくみを妄想するわけです。
 それが妄想で終わらないようにするために「実験」があります。
 科学は、「観察」→「仮説」→「実験」を1セットにした試行錯誤の繰り返しによって成り立っているのです。

 だから、無数の仮説が生まれ、実験の結果葬られていきます。
 以前話題になったSTAP細胞も、その一つです。
 有象無象の「仮説」が淘汰された末の、ほんのわずかな生き残りが、私たちが知る科学法則であり理論です。
 ノーベル賞の栄光の前には、有名無名の科学者たちの仮説が死屍累々と横たわっていることを忘れてはなりません。

ⅱ)蓋然性

 科学は、いつでも、どこでも通用するものだと考えられています。
 それを科学の「客観性」とか「普遍性」といいます。

 たしかに、リンゴは、1万年前も、現在も、木から落ちる。

 それは、日本でも、イギリスでもそうでしょう。
 重力は、いつでも、どこでも通用しそうです。

 それは、実験することで何度も何度も確認作業をしている、という自信に基づくものでしょう。
 それが科学の客観性や普遍性を支えていることもたしかです。
 
 しかし、科学はどこまでいっても仮説にすぎません。
 いくら実験を重ねても、実験の分だけ《たしからしさ》が増すだけです。
 その《たしからしさ》のことを「蓋然性」といいます。

 テレビには、しばしば「専門家」と呼ばれる人たちが出てきますよね。
 その中で、まともな科学者は、「~と言われています」とか「~と考えられています」と発言しています。
 それは、科学の描く世界が蓋然的なものでしかないからです。
 今度「専門家」がテレビに登場したら、注目してみてください。

 だから、「安全」なはずの原発も、事故の起こる確率がちゃんと計算されていました。
 保険会社の計算で2千年に一度。
 実は、福島原発事故当時、日本には54基の原発があり、保険会社の確率で考えると、39 年に一回という確率で事故が起こる計算になっていました。
 福島の事故は2011年。
 その前は、、、
 1999年。東海村臨界事故。2人が亡くなっています。
 ちなみに、唖然としますが、、、
 電力会社は1千万年に一度と計算していました。

ⅲ)神秘主義

 科学は神秘主義的です。
 「神秘主義」とは、見えないものの存在を信じることです。

 たとえば、科学は、雷を「空中の放電現象」と説明します。
 しかし、「鬼が雲の上で太鼓を叩いている」というお話とどこが違うのでしょうか。
 私たちには「放電」も「鬼」も見えません。
 見ているのは「雷」でしかありません。
 それが「放電」に見えるとしたら、科学的な説明が正しいと思っているからでしょう。

 この世界は、原子でできている、と科学は言います。
 でも、それを見たことがありますか?
 いや、でもそう考えると、いろいろつじつまが合う。
 そう考えることで、現代の豊かで便利な生活が現に成り立っている。
 まさに、「そう考える」ことが大前提にあります。
 だからこそ、それがただの「そう考える」でなくそうとして、実験があるのですが、、、
 いくら実験を重ねても、実験の分だけ《たしからしさ》が増すだけです。

 その意味で、科学はどこまでいっても〈蓋然性の高い仮説の体系〉であって、科学の描く世界は、科学的な立場から見た、世界の一つの可能性にすぎません。
 にもかかわらず、それを「正しい」世界像だと思うとしたら、、、
 まさに神秘主義、見えないものの存在を信じている、と言われてもしかたありません。
 原発は安全だという安全神話がどこから生まれてきたのか、がわかりますよね。

 

——➃では、「科学」と「技術」の違いについてお話します。

➃技術と科学

ⅰ)語義の違い

 一言でいって、「技術」とは〈実用知〉です。

 文章を書く技術、
 料理の技術、、、
 生活に役立つ知識や知恵を「技術」といいます。
 人間はそうしたもろもろの「技術」がないと生きていけない以上、「技術」こそが人間を人間たらしめる根源的なものだといえます。

 一方、「科学」は、、、

 英語のscienceの訳語です。
 scienceとはknowledge〈知識〉という意味だと英語の辞書に載っていますが、ここでいう「know」とは、ただ「知る」ことではなく、主体的に「探求する」ことです。
 つまり、生活に役立つかどうかではなく、自分が面白いな、不思議だな、と思ったものを調べたり、考察したりすることをscienceといいます。

 だから、scienceとは〈知的探求〉のことであり、〈学問〉を意味します。

ⅱ)なぜscienceは「科学」なのか

 しかし、19世紀後半にscienceは大きく変質します。

 scienceには本来分野はありません。
 自分の知的関心の赴くままに探求すればいいのであって、医学とか、数学とか、哲学とか、関係ありません。

 デカルトが医学者であり、数学者であり、哲学者である、といわれるのは、後の時代の人が分けただけで、本人の中では分かれていません。
 ニュートンが数学者であり、物理学者であり、錬金術師である、というのも同じです。

 ところが、知識が増えてくると、それを一人で全部カバーできなくなってきます。
 自分の得意分野に絞る必要が出てきたわけです。
 こうして、scienceは専門分化していきます。

 「科学」の「科」は〈分類〉という意味です。
 本来、世界全体を対象とした学問であるscienceがなぜ「分類された学問」と訳されたのか。
 それは、scienceという語が日本に入ってきた当時、19世紀後半のscienceが、専門分化した学問だったからです。

ⅲ)科学技術

 科学は、そもそも、近代ヨーロッパに成立した、きわめて特殊な知の一種にすぎません。
 しかし、19世紀になると、科学的な知識が次第に実生活に応用されていきました。

 たとえば、科学者が原子について研究することは、純粋に学問的な好奇心に基づいて行われていたでしょう。
 が、その研究が実生活に応用されると、原爆や原発が生まれます。

 こうした〈実用化された科学〉を「科学技術(technology)」といいます。
 私たちが日常で目にする「科学」は実生活に役立っているものですから、正確には「科学技術」と呼ばなければならないものだといえます。

ⅳ)科学と科学技術

 本来「科学」は、科学者が自らの興味関心に基づいて、世界を探求することですから、実生活に役に立つかどうかなど考慮しません。
 地道で、しかも報われるかどうかもわからないことに一生をかける。
 一種のオタクです。
 これは、現在、「基礎研究」と呼ばれますが、これこそが本来の「科学」です。

 そこから生まれた科学的な知識を実生活に応用したものを「科学技術」といいます。
 現代文明の豊かさ、便利さは、この「科学技術」に支えられています。
 そのせいで、現在、この「科学技術」と「科学」はほとんど区別されていないようです。

 が、「科学」の本質は基礎研究にあります。
 そこからの恵みがあって、「科学技術」は発展する。
 しかし、現実に社会を豊かにする「科学技術」にばかり目がいくと、基礎研究は、社会に役立たない、むだなことをやっているように見えます。
 周りから評価されないにもかかわらず、地道にやってきた研究がノーベル賞をとる、というのは珍しいことではありません。
 これは、基礎研究が、現在の社会に役立つかどうかを考えないからこそ、未来を先取りしたり、未来を切り開いたりできるからでしょう。
 もし私たちが「科学技術」を「科学」だと思い込み、基礎研究を疎かにしたら、、、

ⅴ)技術と科学技術

 本来の「技術」は、人類誕生以来その暮らしを支えてきた、生活の知恵です。
 人間が人間であるために必要な根源的なものといってよいでしょう。

 ところが、「技術」が「科学」の子分であるかのように描かれることがあります。
 もうおわかりでしょうが、この「技術」は「科学技術」のことを指しています。

 だから、「技術」という語が出てきた時には、本来の「技術」のことをいっているのか、それとも「科学技術」のことをいっているのか、判断する必要があります。

 

——⑤では、これからの科学のあり方を考察します。
  「複雑」という科学の不得意分野についてお話します。

⑤科学はどこへ向かうか

ⅰ)単純/静的→複雑/動的

 この世界は複雑です。
 それを、できるだけ単純にとらえようとしているのが科学です。
 唯物論、要素還元主義、機械論という3つを科学の基本的な特徴として紹介しましたが、いずれも、この世界を単純で静的にとらえようとする試みです。

 でも、単純にとらえようとしても、なかなかそうはいかないところもあります。
 そうした部分は見て見ぬふりをする。
 あるいは、哲学や神学などに任せて、自分の担当じゃないふりをする。
 いってみれば、科学は、自分の解けそうな問題を選んで解いてきたわけです。

 が、だいぶ解ける問題が増えてきたから、これまでごまかしてきた問題にもとりかかろうか、というのが最近の状況でしょうか。

ⅱ)システム論

 卵が先か鶏が先か。
 考えたこと、ありますか。
 卵が生まれるためには鶏が先で、でも、鶏がいるためには卵が先で、、、
 
 このように、要素還元主義的な、単純な因果関係では説明できない話はそこら中に転がっています。

 たとえば、君という一人の人間が今あるのはどうしてでしょう。
 もし、君という存在にもと ●● となるものがあったとしても、今の君があるためには、家族や友人など、さまざまな人間とのかかわりが必要ですよね。
 そして、君自身もまた、そのかかわりのなかで、他の人間を成り立たせています。

 そうした相互関係のなかで、人間や社会、世界が成り立っていると考えるのが「システム論」です。

ⅲ)複雑への挑戦

 バタフライ効果というのを聞いたことがありますか。
 『ブラジルでの蝶のはばたきがテキサスに竜巻を引き起こすか』という気象学者の講演の題名から生まれました。
 原因がわずかに違うだけで、大きな結果の違いが生まれる予測不可能性を意味する「カオス理論」の言葉です。

 カオス理論など「複雑系の科学」といわれるものは、科学がこれまで扱えなかった、あるいは、扱おうとしていなかった領域にチャレンジしました。
 もちろん一筋縄でいかず、言葉としては廃れかけていますが、さまざまな研究分野に影響を与えて、今も息づいています。

ⅳ)シミュレーション

 「シミュレーション(simulation)」とは、〈実際に実験できないときに、模型などを使って実験すること〉です。
 「模擬実験」と訳されます。

 たとえば、フクシマの話をしたときに、、、

「原発は何重もの安全措置がとられているから安全なんだ、と言われていました。
 でも、それを誰が確かめたのでしょうか。」

 と言いましたが、もちろん、誰にも実際に確かめる方法はありません。
 地震や津波を起こしてみるわけにはいきませんし、テロ行為を試みるわけにはいきません。
 そこで、コンピュータ上でシミュレーションしてみて、安全を確かめる、というのが一般的な方法です。

 地球温暖化でも同じです。
 コンピュータ上でのシミュレーションによって、地球環境の変化を予測しているわけです。
 ただ、そうしたシミュレーションには限界があります。
 バタフライ効果は、そうした予測の限界を指摘する言葉です。
 世の中では二酸化炭素ばかりが取り上げられますが、実際のシミュレーションでは、さまざまな要因が組み込まれて計算されています。
 が、どれほど複雑な要因を組み込んだところで、ほんの少しの違いが大きな結果の違いを生むわけで、、、 
 天気予報も、長期予報になるとあたらないことがしばしばあるのに、50年後や100年後の予測が確定であるかのように扱われているのはどうしてでしょうか。
 「安全神話」と同じ匂いがします。
 現代人は、科学を盲信することに懲りていないのでしょうか。
 科学技術に支えられた現代の《豊かさ》が決して地球に優しいといえないことはたしかでしょう。
 だからこそ、そうした人間の行きすぎた行動をいさめる話として、地球温暖化を警告として持ち出すのは歓迎です。
 が、そこにヒステリックさを感じるのはなぜでしょう。

ⅴ)再び、複雑系

 「二重振り子」を知っていますか1
 振り子を2つ連結したものです。
 振り子の周期性などは理科で習う話ですが、それを2個連結したらどうなるか、わかりますか。
 実は、まったく予測がつかない動きをします。
 規則正しい動きをしていると思った次の瞬間、ランダムな動きに変わったりします。

 現在の科学は、この世界が機械論的にできていることを前提にしています。
 規則正しいしくみでできていると考えています。
 が、もしかしたら、それは二重振り子でいう「規則正しい動き」をしている部分を見ているだけかもしれません。

 もしこの世界がそうした規則正しさを失ってしまったら、どうなるのか、を語る術は、現在の科学にはありません。
 それは、機械論という科学の大前提を壊すことになるからです。
 それに挑戦しようとしたのが「複雑系の科学」です。

 地球温暖化一つとっても、いろいろな説明がされていますが、現在の科学では説明しきれないところが多々あります。

 たとえば、科学的には、地球が温暖化すると、降雪が増えて、南極の陸氷は増えるはずです。
 逆に、海面温度が上がるから、海氷は減るはず。
 にもかかわらず、陸氷は減り、海氷は増えています。
 最近の観測ではそれも変化が見られるようで、、、
 これらの現象を適切に説明できる科学者はいないようです。

 私たちの生活が科学に支えられていることはたしかです。
 でも、その限界は十分に承知していなければなりません。
 その上で、その限界にチャレンジする科学者たちにエールを送ろうではありませんか。


12重振り子のカオス現象(関西大学 機械力学・制御工学研究室)

 

——⑥は、いわば延長戦。重要度の高い話題から低い話題まで、これまでの話のなかでうまく入れられなかった話題を集めました。

⑥延長戦

ⅰ)そこに人はあるんか?

 「ナスカの地上絵」を見たこと、ありますよね?
 何であんなものが昔からあるのか?
 どうやって描いたのか?
 そういう、時代的にありえない人工物をオーパーツ(OOPARTS=out-of-placeartifacts)といいます。

 でも、それは、「今の科学から見ると」そんな昔にあるのはおかしい、と思っているだけです。

 私たちが何かを見るとき、必ずどこかから見ています。
 私たちが見ているのは、その場所から見える部分だけです。
 今私はパソコンの画面を真正面から見ているので、パソコンの裏側が見えません。
 逆に、裏側から見ると、パソコンの画面を見ることはできません。
 
 科学も、ある特定の立場から世界を見ています。
 科学には、見えるところと見えないところがあるのです。
 オーパーツは、現在の科学の立場から説明できないので「ありえない」と思われているだけで、それが作られた時代にはきわめて普通のことだったのかもしれません。

 しかし、その立場がなければ、科学は成り立ちません。
 この科学を成り立たせている立場、枠組みのことを「パラダイム(paradigm)」といいます。
 もちろん、その枠組みを作ったのは人間です。
 科学は、その成り立ちからして、人間と深く結びついているのです。

 現在、パラダイムという言葉は、科学だけでなくさまざまな分野で、〈何かを成り立たせている知の枠組み〉という意味で使われます。
 たとえば、「経済のパラダイム」とは、経済を成り立たせている根本的な枠組みのことです。
 停滞した日本経済を立て直すためには、経済のパラダイムを転換する必要がある――などと使います。

ⅱ)そこに神はあるんか?

 知の枠組みが代わることを「パラダイム・シフト」といいます。
 17世紀に、キリスト教的なパラダイムから現在の科学的なパラダイムへの大きな転換がありました。
 そうしたキリスト教の影響から脱することを「神からの解放」といったり、「世俗化」「脱呪術化」といったりします。

 しかし、本人たちにどれほどの自覚があるかわかりませんが、ヨーロッパはべたべたにキリスト教国です。
 ということは、ヨーロッパで生まれた科学が、キリスト教の影響を逃れることなどできるわけがありません。

 たとえば、科学の特徴である機械論。
 世界にしくみがあるという話です。
 ということは、、、
 そのしくみを作ったヤツがいるはず。
 それは誰でしょう?

 もちろん、神しか考えられません。

 現在の科学がキリスト教前提ならば、もしかしたら、仏教前提の科学もあり、なのかもしれません。
 それがどんなものなのか、想像できませんが、現在の科学とはかなり異質なものになることはたしかでしょう。

 ちなみに、現在の科学はイスラム文化の影響も受けているので、そもそもがイスラム教前提です。
 化学に登場する「アル~」。
 アラビア語の「the」です。

 ところで、、、
 「ラプラスの魔」とか「ラプラスの悪魔」という言葉は聞いたこと、ありますか。

 もしこの世界が本当に機械論的にできているなら、そのしくみにしたがって、世界は動いているわけですから、これからの世界の動きはすべて予測可能なはずです。
 このように、世界の動きが一義的に決まっていると考えることを「決定論」といいます。
 しかし、その決まっている未来を知るためには、この世界のすべて ●●● のしくみを把握する必要があります。
 そんなこと、人間にはとうていムリです。
 数学者のラプラスは、それができる超人的、悪魔的な存在を想定しました。

 それが、ラプラスの魔です。

 いってみれば、ラプラスの魔は、「運命」を言い換えたものです。
 何をしたって、未来は決まっている。

 いやいや、、、
 世界はさまざまな可能性を孕んでいて、私たちの何気ない選択が未来を無数に分岐させていく。
 今私たちがいるのは、そうした選択の結果ある「世界線」なのだ。

 こうしたパラレル・ワールド、枝分かれしていく並行世界を想定するのが今の主流かもしれません。
 私自身は、どちらかといえば運命論寄りの考えですが、でも、あの時ああしてたらどうなっただろう、と考えることはしばしばあります。

 ちなみに、アニメやゲームなどに出てくる「ラプラスの魔」は未来を操れる存在として描かれることが多いようですが、それはまちがいです。
 決定している未来を知ることができるだけで、決定している以上、未来を変えられるわけではありません。

ⅲ)そこにAIはあるんか?

 AIの発達によって失われる職業という話が話題になりました。
 スーパーやコンビニの店員、タクシーの運転手などが10年後にはなくなりそう、ということです。

 でも、こうしたことは科学や技術の発達でこれまでも起こってきたことです。
 イギリスの産業革命では、機械に仕事を奪われた人たちが機械を打ち壊すラッダイト運動を起こしました。
 AIによってなくなってしまう職業は必ずあるでしょう。

 そもそも、道具というものは、人間の身体能力を外化し、強化したものです。
 単純に力比べをしたら、人間が勝てるわけがありません。
 たとえば、足を外化したのが、自転車や自動車でしょう。
 速さ比べをして勝てますか。
 同じように、脳を外化したのが、コンピュータです。
 だから、単純な計算競争や知識比べをしても、絶対勝てません。

 もし勝てるとしたら、もっと複雑な競争です。
 「複雑」は科学の不得意分野だというのを思い出してください。
 が、コンピュータが学習能力をもつようになりAI、人工知能と呼ばれるようになると、それもだんだん攻略されてきています。

 今や、チェスも将棋も囲碁も、トッププロさえなかなかAIに勝てません。

 だから、将棋のプロもAIの指す手を研究していると聞きます。
 AIは、瞬時に膨大な指し手をシミュレーションして、そのなかで最善の手を選んでいるそうです。
 人間なら考えもしない、くだらない手まで含めて、網羅的にシミュレーションしているからこそ、人間には思いつかない一手を見つけることがある。
 そうした非人間的なことを開拓できることに、AIの真骨頂があるのです。

 では、AIにはない人間の強みは何でしょう。
 それは、やはり「人間」であること。
 たとえば、移動手段としてだけ考えれば、タクシーの運転手は必要なくなるでしょう。
 が、乗るのを手助けしたり、荷物を載せるのを手伝ったり、体調を気づかったり、、、
乗客に対する細やかなサポートを考えると、そこは人間の運転手が必要なはずです。
 いや、そうしたことも遠くない将来AIができるようになるよ、きっと。
 と思う人もいると思いますが、本当にそうしたことがAIにできるようになるなら、それはそれで暖かい社会が生まれそうなので、悪いことではないと思います。

 科学にとって人間とのかかわりこそが最も大切だ、というのは、AIにおいても変わりありません。
 そして、AIの可能性に期待するならば、そこに科学としての限界があることも忘れてはならないはずです。


1-2-5「芸術」について


新入試評論文読解のキーワード300 増補改訂版
大前 誠司 編著
1,430円・四六判・328ページ


タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 大前 誠司

    1962年徳島県生まれ。東京大学法学部卒。
    一般社団法人学びプロジェクト(manabi-project.com)代表理事。
    現在、あざみ野塾/あざみ野予備校、あざみ野大人塾などを運営。

関連書籍

ランキング

お知らせ

  1. 明治書院 社長ブログ
  2. 明治書院
  3. 広告バナー
閉じる