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教室からの報告『コインは円形である』

教室からの報告『コインは円形である』(1/全4回)

(明治大学付属中野中学・高等学校教諭 岸 洋輔)

国語の授業で、何を教えるのか

 生徒が、国語の授業に興味を失っていく原因は何だろうか。生徒の意見を大別すると、概ね次の二つとなる。

 「筆者がどう考えているかを知るには、筆者に尋ねるのが一番だ。いくら話し合っても埒はあかない。」
 「国語の『答え』は、数学のように一つではないはずだ。なぜ、正解・不正解が決められるのか。曖昧だ。」

また、国語に関心のある生徒の中でも、

 「国語は嫌いではないが、何を、どう学べばよいか、分からないから困る。」という意見を持っている生徒も多い。このことは、裏を返せば、国語の授業において、何を、どう教えるのか、という最も基本的なことに結び付く。そして、この疑問を解消してあげることが、「生徒の学習意欲を喚起する」ことになるはずである。

 では、国語の学習で、一体何を学ぶ(教える)のか。一般的に考えれば、読む(聞く)ことと書く(話す)ことである。しかし、そのような通り一遍の答えでは、生徒は納得しない。なぜなら、国語で扱うものは、生徒が普段使っている言葉だからだ。教わらなくとも、自分は読むことも書くこともできる、と思っている。英語であれば、読むことと書くことは重要な学習目標になり得る。すぐには読めないものであるから。従って、読むことができた、という達成感も自然と生まれる。それに対して国語では、読むこと書くことの達成感は極めて薄い。実際、読書は好きで、新しい教科書を手にするとその日のうちに読み終えてしまうが、国語の時間になると寝てしまう生徒もいる。そういう生徒に、国語で学ぶことは読むことだよ、といくら言っても説得力はない。勿論、基礎的な国語力としての読み書き、例えば、漢字が正しく書けるようになることや語彙を増やすことなどは、国語の大切な学習目標であり、その点において、生徒の達成感も得られる。しかし、それだけで国語の授業への興味をつなぎ止めることはできない。

 私は、国語の学習で何を学ぶか、と問われたなら、正しく想像することだ、と答える。唐突過ぎて、ますます曖昧模糊とした表現ではあるが、この学習目標の方が、主体的な読解につながり、より実践的である、と考えている。

 ではこの「正しく想像すること」とは、何か。私は、最初の国語の時間に、次のような話をする。

 地球は動いている。公転も自転もしている。このことは、誰でも知っている。もし、地球は宇宙の中心にあり、静止している、と言えば、小学生にだって笑われる。それは、誰もが認める「事実」なのである。だが、この「事実」は、我々の五感でとらえられるものではない。地球が動いている、と感じている人は誰もいない。にもかかわらず、地球が動いていることを「事実」だとするのは、なぜか。それは、事実の積み重ね(実証)と正しい筋道(論証)の上の成立した「事実」を、我々は事実と同じに扱うからだ。換言すれば、正しく想像された「事実」は、五感でとらえた事実と同じなのである。この想像力は、我々の世界を広げる。なぜなら、目に見えるもの以外の世界を、目に見える世界と同じに考えられるからだ。過去の世界(歴史)や宇宙をも知ることができる。そして、この想像力の基礎となっているのが、言葉なのである。例えば、電話で待ち合わせの約束をすること。言葉によって、待ち合わせの場所を互いに正しく想像することができなければ、その約束は決して成立しない。当たり前なことのようだが、言葉を持つ人間にしかできない、物凄いことなのだ。或いは、将棋はその「正しく想像する」力の競い合い、と言ってよい。駒を置いてみなければ、先が読めない、というのでは、勝負にならない。究極の将棋指しは、将棋盤がなくても将棋がさせる。そして、この大切な「正しく想像すること」を学ぶことが、国語の学習の大きな目的なのである。

 前置きが長くなってしまったが、この話が「生徒の学習意欲を喚起する」授業とどう結びつくのか、述べることにする。そこで、冒頭に挙げた、国語への興味をなくす二つの原因について考えてみる。

 その一つ、国語の「答え」は筆者に聞くのが一番だという意見。筆者に聞いたのでは、「正しく想像する力」は養えない。それを想像することが重要なのだ。第一、答えをいちいち筆者に尋ねていたら能率が悪い。筆者にしても迷惑だ。そんなことは本を読めば分かるはずだ、と思うに違いない。そのために本を書いているのである。本を読むとは、筆者の表現を通して物のみ方や在り方を、正しく思い描くことである。もし、納得がいかなければ、書いてあることを根拠にして、とことん皆と話し合うべきである。このことの方が国語力を付けることになる。直接筆者に「答え」を聞いても、国語力をつける上で何の足しにもならない。ちょうど、駒を置いてみないと先の読めない人は、いつまでたっても将棋の力が上がらないのと同じことである。

 もう一つの、国語の「答え」は一つではないはずだ、という意見は、表現にも関わってくる。確かに、国語の「答え」は、数学のように一つではない。しかし、それは表現の違いの問題である。本に書かれている内容を「正しく想像すること」ができて、そのことを相手に「正しく想像」させることができるように表現してあれば、それが正解となる。待ち合わせの約束の表現方法は千差万別であるが、実際に出会えるか否かは一つである。それは、自分が「正しく想像」できたか、相手に「正しく想像」させることができたかにかかってくる。

 私は、国語の学習目標が「正しく想像すること」だ、と述べてきたが、それは正しく読解することと何も変わらない、単なる言葉の綾にすぎないかもしれない。しかし、こう表現することで、自分の頭の中に本に内容を正しく思い描こう、という主体的な意識を喚起させることができるのなら、それは言葉の綾以上の力を持つはずである。(続く)

 

新 高等学校 国語総合

※『コインは円形である』(佐藤信夫)は、『新 高等学校 国語総合』に採録しています。
ものの見方、認識について考える。相互理解のためにこそ、レトリック感覚が必要であると説く評論教材です。

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