教室からの報告『コインは円形である』(4/全4回)
(明治大学付属中野中学・高等学校教諭 岸 洋輔)
評価問題作成における観点
最後に、このような授業内容を評価とどう結びつけるかについて、述べてみる。ここでは、各論すなわち、この教材の具体的な評価問題を示すには紙幅が足りないので、一般論すなわち、どの教材にも当てはまる、評価問題作成における私なりの観点を示しておく。細やかな問題(漢字の読み書き、語の意味、指示語や接続詞などに関する問い)はさておき、読解に関わる問題の作成に当たっては、次の四つを心掛ける。
- 一、授業中の板書事項の中から、問いを作る。(文字による伝達の確認。)
- 二、授業中の説明事項(私が書き取るよう指示したもの)の中から、問いを作る。(音声による伝達の確認。)
- 三、授業中の質問事項(板書も説明もしなかったもの)の中から、問いを作る。(要点をまとめる力を試す。)
- 四、授業中では全く触れなかったものについて、問いにする。(応用的な国語力を試す。)
理想を言えば、項目の四だけでよいのかもしれない。他の項目は功利的で、本筋から外れた邪道かもしれない。ただ、こうすることによって、国語の学習方法を明確にすることができる。国語に関心があっても、一体何をどう学べば、国語の学力が身に付くのか、分からない生徒にとっては救いになるはずである。(もっとも、この場合の学力とはテストの点数を上げることであるが。)このような生徒にとっては、授業中、しっかり板書事項を書き写すこと(項目一)、教師の説明を確実にノートにメモすること(項目二)、教師の質問についてよく考え、仲間の意見もしっかり聞くこと(項目三)、これらのことが自分の国語力を付けることになる、ということが明確になる。それは、その生徒の授業態度にも反映されてくる。また、国語の得意な生徒にとっては、項目の三・四において、自分の力を発揮することができよう。生徒のやる気をなくさせない評価問題を作成することが、私にとって最大の目標である。
この観点を生徒に話すことはしない。しかし、何回かのテストを行うことで、生徒は自然と分かってくる。また、各項目を均等に、すべて網羅するわけではない。教材そのものの難易度により、各項目の割合を変えて出題する。
学校の事情によっては、一学年の全クラスを一人の教師で担当することができない場合がある。その場合でも、このような評価問題の作成は可能なのか。私の勤務校は、まさにその場合に当てはまる。その際には、一緒に組む教師と授業の前の打ち合わせを綿密に行う。授業方法まで同じにすることはないが、その教材に対する基本線を確認し合ってから授業に臨む。こういうことで、十分に可能になる。
これまで述べてきた授業内容や評価問題の作成方法は、一見対処療法にすぎないように思えるかもしれない。その場の国語力を付けるのみで、真の国語力にはならない、という考えである。しかし、この対処療法を継続することが真の国語力を身に付けさせることに通じる、と私は考えている。問題集を解いたりテストを行ったりすることだけが、国語力を付けることではない。真の国語力とは、ある点では評価に関係のないところで身に付くものである。例えば、皆の前で自分の意見を発表する力や、人の話を聞きその内容を的確に理解する力などは、授業の中で身に付くものである。私は、何も堅苦しい授業ばかりしているわけではない。時には、脱線しすぎて雑談で一時間を終えてしまうこともある。(こうした話に、生徒はとてもよく食いついてくるのであるが。)こういうことでも、真の国語力は身に付くのではなかろうか。私なども高校時代の漢文の先生の雑談をよく覚えている。このことは、直接ではなくとも、教師という職業に役立っている。どうすれば、生徒を笑わせるような話をすることができるのか、その話し方をその先生から教えて戴いた、と思っている。国語とは、言葉を学び教える授業である。しかし、言葉そのものを取り上げても意味はない。なぜなら、言葉とは単独に存在しているものではなく、生身の人間が使って初めて存在するものだからである。授業をいかに活性化するか、このことが真の国語力を身に付けさせることになるのである。(了)
※『コインは円形である』(佐藤信夫)は、『新 高等学校 国語総合』に採録しています。
ものの見方、認識について考える。相互理解のためにこそ、レトリック感覚が必要であると説く評論教材です。