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授業実践<古典>

古典文学を読めるようにするために

目次


・はじめに
・古典文学を読めるようにするために
 古典学習の意味を考える
 Ⅰ 《準備》としての現代文法
 Ⅱ 古典学習の始まり
 Ⅲ 形容詞・形容動詞の学習
 Ⅳ 助動詞の学習
 Ⅴ キチンと読む古典
・おわりに 

はじめに

 「私たちの祖先はどうして、莫大なお金と労力を使って古典文学を書写し続けてきたのだろう?」「どこにそれだけの価値があるのだろう?」 ——高校生時代からずっと疑問に感じていました。

 手元にある中学生向け『国語資料集』の『枕草子』の解説にある、「鋭い感性と観察眼で⋅⋅⋅⋅⋅⋅」という文章を読んでも、どうしても納得できません。「春は曙の時間帯が一番素晴らしい」と言われても、「そう感じる人もいるんだなぁ」が精一杯の理解で、どう考えても「鋭い感性」や「鋭い観察眼」を読み取ることができませんでした。

 古典に対するたくさんの「どうして?」を解決したくて古典文学を読みあさりました。解答は見つかりません。そのかわりに、中学生のときに学習した現代文法の中で釈然としなかった部分が古典文法には存在しないことに気づき始めました。「仮定形って未然形の一種じゃないのかなぁ?」「終止形と連体形の区別なんて必要なのかなぁ?」⋅⋅⋅⋅⋅⋅それまで漠然と抱き続けていた疑問が氷解していくのが楽しくてなりませんでした。

 大学時代、高橋正治先生から「道長から資金提供を受けて執筆したとしか考えられないのに、紫式部はなぜ藤原物語ではなくて源氏物語を書いたのか?」という話を聞き強い興味を感じました。檜谷昭彦先生の『江戸時代の事件帳』という著書を読んで、古典の時代の「闇」とも言える部分に目を向けることの大切さも学びました。書物の形で現存しているものは、歴史の中のごくごくわずかな部分でしかないのだと、改めて実感しました。

 言い古されたことではありますが、私たちが今、ここに存在しているのは、この国に流れてきた長い歴史があればこそ、なのです。《日本人》について知ることは、私たちの今の生活に必要不可欠なことであるはずなのです。

 日本人を知るためには、日本の古語を学ばなければならない。私たちの先祖が人生を賭して書写してきた古典文学について知らなければならない。私はそう確信しています。

 しかしながら、ただ漫然と古典を読むだけでは何の解決にもなりません。一夫多妻と言われる平安時代ですが、女性は本当に、ただ、虐げられているだけの存在だったのだろうか? たくさんの女性と不倫関係を続ける光源氏が世間から糾弾されることもなく、「女性の敵」として見られることもなかったのはどうしてなのか?

 考えさせるだけでは恐らく、絶対に正解にたどり着けない問題だと思います。【教える】しかありません。教師が正しい方向に導きながら【理解させる】しかないのです。一方通行の授業になることへの批判はあると思いますが、こればかりはどうにもなりません。

 いかにわかりやすく教授するか——そのためにはまず、教師がどれだけ正確に、深く理解しているかが何よりも大切です——これこそが、古典初学者の授業を担当する者に課せられた唯一最大の課題であると確信しています。

古典文学を読めるようにするために

 

古典学習の意味を考える

 教職を目指す大学生を相手に授業をすることがあります。学生たちに必ず「中学生や高校生から〈古典を学習する意味って何ですか?〉という質問を受けたら何て答える?」と問いかけます。回答の大多数が「受験で役立つから今から少しずつ勉強しておくといいよ」というニュアンスです。確かにその通り。古典という教科は、《努力と得点の相関性が最も高い教科》であると確信しています。しかしながらそれは絶対に、《古典学習の意味》ではないのです。

 私たちが当たり前のように古典文学を読むことができるのは何故か?——非常に多くの先人が、文字通り「自分の命を削って」古典文学を書写し続けてきたからです。単調な書写作業、更に、書写に使う紙の希少性(=紙がどれほど高価なものであったか)を考えれば、作品に対する書写者の思い入れが、我々の想像をはるかに上回ったものであることは確実です。

 「私の祖先をそこまで熱くさせたものは何なのだろう?」——古典文学の学習はどうしても不可欠です。

 古典(以後、この文章では、古典を平安文学に限定して話を進めます)を読むにつれ、古語の論理性に魅せられます。私は文法が大好きです。しかしながら、生徒たちに私の趣味を押しつけるわけにはいきません。生徒たちが楽しく、しかも正確に、古典文学を読めるようにするにはどうしたらいいか、日々の実践の実状をご覧いただくことにいたします。

 

Ⅰ 《準備》としての現代文法

 中学1年生には現代文法を教えます。座右の銘は「その場しのぎはダメ」。現代文法学習は《古典文法学習の準備》であると位置づけているためです。具体例を2つ示します。

① 文を【文節】に切る。

 全生徒が、「ネやヨを入れて文章を読んだとき⋅⋅⋅⋅⋅⋅」という方法を主張します。手軽で確実な方法です。しかしながら古典では通用しません。「自立語が出てきて次の 自立語が出てくるまでが文節」という概念を徹底させるようにしています。
 文節の概念は【係り結び】を理解する上で不可欠です。極めて重要な学習内容で あると考えています。

② 活用表の重要性

 活用表を覚える作業を重視しています。

 「接続する語を覚えれば、活用表を丸暗記する必要はない」——その通りです。 五段活用の未然形はア段で、上一段活用の未然形はイ段で⋅⋅⋅⋅⋅⋅などと覚える必要は ないのです。「ナイやウ(ヨウ)に接続するのが未然形」と覚えさえすればいいので す。しかしながら古典では、「助動詞ケリに接続するのが連用形ですよ」と教えられ ても困ってしまうはずです。「活用表を暗記する作業」は非常に重要なのです。

 現代文法学習で最初に徹底させるのが【活用】の概念です。私は、「一つの単語が他の単語の影響を受けて形を変える現象が【活用】である。」と教えます。「I am a student」と「He is a student」というように、主語によって形を変える英語のbe動詞がその典型です。

 日本語の活用は⋅⋅⋅⋅⋅⋅
 日本語が所謂【膠着語】であることを完全に理解させなければなりません。

 生徒の理解を測定する最高の尺度があります。やがて古典で【係り結び】を教えます。【膠着語】としての日本語を理解している生徒は容易に、【係り結び】が日本語の大例外であることに気づきます。

 「テストを受く。」の「テストを」に係助詞「なむ」が接続すると、「なむ」によって「受く」が連体形化され、「テストをなむ受くる。」という【係り結び】の文ができあがります。そこに接続助詞の「ども」が接続すると⋅⋅⋅⋅⋅⋅

 「受く」を連体形化しようとする「なむ」と、已然形化しようとする「ども」の間で闘いが起こります。日本語は膠着語ですから、「ども」の勝利は明らかということになります。これが【結びの流れ】です。

 現代助動詞の学習にも力を入れます。特に【接続】と【活用】です。【接続】に関してはその概念を徹底させ、古典助動詞の接続を丸暗記することへの抵抗をなくすことを目標にします。【活用】に関しては、「助動詞の活用は原則として用言の活用パターンと同じである」と教えます。「れ・れ・れる・れる⋅⋅⋅⋅⋅⋅」を暗記させるのではなく、「下一段型なのだ」と覚える習慣を身につけさせます。生徒が「終止形がウ段で終わる助動詞は動詞型活用であるに違いない」「イで終わる助動詞は形容詞型活用であるに違いない」などと意識できるようになれば申し分ありません。

 このような現代助動詞学習の成果として、古典助動詞学習における暗記要素が大きく軽減されます。古典助動詞の活用は『資料1』※一太郎ファイル(記事最下部ボタンよりダウンロード)の形で理解すれば十二分です。

 現代文法は常に、その先を見据えて教授しなければなりません。

 

Ⅱ 古典学習の始まり

 本格的な古典学習は中学2年生でスタートします。

 殆どのテキストが、【歴史的仮名遣い】の学習を古典学習の第一歩として位置づけています。しかしながら私は、【歴史的仮名遣い】をそれほど重視しません。ただ単に、「平安時代には発音通りに表記していたのだ」とだけ教えます。現代語では「ず」と発音するのに「つづく」と書く。「お」と発音するのに助詞の「を」は「を」と表記する。平安言葉にはそんな【仮名遣い】の約束など存在しない。ただ、発音のままに表記していたのだと説明します。

 本格的な古典学習の第一歩は《動詞の活用》です。前述のように、「活用表をひたすら覚える」という作業です。生徒には《パズル遊び》として理解を深めてもらおうとしています。『資料2』※一太郎ファイル(記事最下部ボタンよりダウンロード)は、一学期中間テスト前の、古典動詞活用表についての練習問題です。

 もちろん、活用表だけで授業をするわけではありません。やはり《例文》を使っての学習が必要です。ところがそこで、「古典の例文を使った学習には例文の解釈が不可欠」という問題点に直面してしまうのです。

 助動詞や助詞についての解説をしなければならないのは仕方がないのですが、それに加えて、古典特有の語の意味を説明しながら正しい解釈をさせた上で文法の解説をしなければならないのです。解釈のための文法であるはずが、文法のための解釈になってしまう、文字通りの本末転倒の授業を余儀なくされるのです。

 そこで役立つのが讃美歌です。私の勤務校はキリスト教主義の学校です。毎朝歌う讃美歌の中に古典文法学習の例文として非常に優れたものが多いことに気がつきました。

―わが主とともに迎へざりせば、あしたも夜半の心地こそめ。この日もたえず光をたまへ

 所謂<古典作品>に比べて、生徒がいかに容易に解釈できるか——詳述の必要はないと思われます。

 現代文法の【仮定形】が未然形に吸収されていて、現代語には存在しない【已然形】という活用形の概念があるとの説明を聞いて、平安文法が現代文法よりも格段に論理的であるということに気づく生徒も出てきます。

 

Ⅲ 形容詞・形容動詞の学習

 古語の活用を学習する上で、最も気を遣わなければならない箇所です。

 形容詞の活用語尾には、「く・く・し・き・けれ・〇」の系統と「から・かり・〇・かる・〇・かれ」の系統があるのだ、という事実を徹底させます。できれば「く・から・く・かり⋅⋅⋅⋅⋅⋅」という形での暗誦はさせたくないと考えています。授業では、「く・く・し・き・けれ・〇」の系統を【右側活用】、「から・かり⋅⋅⋅⋅⋅⋅」の系統を【左側活用】と呼び、「左側活用は助動詞接続用の活用なのだ」と教えます。

 「右側活用はどんな活用なのですか?」という質問が出ます。「助詞が接続したり、連用修飾・連体修飾をするための活用語尾だ」と答えます。

 忘れてはならないのが、「左側活用がラ変由来のものである」という認識の徹底です。「左側活用は、右側活用の連用形にラ変動詞の《あり》が接続して出来上がったものなのだ」という事実を理解させます。「左側活用の2カ所の《〇》に、理屈の上では《かり》と《かれ》が存在するのだ」という事実にも軽く触れることにしています。

 『竹取物語』で、たくさんの男が「かぐや姫」に求婚する様子を描いた、

―あたりを離れぬ君達、夜を明かし日を暮らす、多かり。

の説明時に役立ちます。

 「左側活用がラ変動詞に由来したものなのだ」という認識は、助動詞学習時にその重要性を発揮します。【終止形接続の助動詞】(ラ変型の活用語に接続するときには連体形接続)を学習するときです。「【左側活用】を持っている活用語は【ラ変型活用の活用語】なのだ」という理解につなげなければならないのです。

 以上の理由から私は、【形容動詞の活用語尾】を一般の活用表とは違った形で教えます。『資料3』※一太郎ファイル(記事最下部ボタンよりダウンロード)のように、連用形活用語尾の「に」や「と」を右側にはみ出させて、「なら・なり・なり⋅⋅⋅⋅⋅⋅」や「たら・たり・たり⋅⋅⋅⋅⋅⋅」を【左側活用】と理解させるようにしています。

 【左側活用】は常に、助動詞接続のための活用であり、ラ変由来の活用であるのです。

 

Ⅳ 助動詞の学習

 助動詞学習は【接続】【活用】【意味】の三本の柱を押さえることで完了です。
 【接続】は丸暗記をさせています。

【活用】は前述の通り、【◎◎型】で覚えさせます。「覚える」と言っても、これも前述の通り、「終止形がウ段で終われば動詞型、シで終われば形容詞型 …… 」という理解が暗記要素の軽減に大きく役立ってきます。

 助動詞《む》の活用は【四段型】ではありますが実際には「〇・〇・む・む・め・〇」です。【四段型】と理解させることに抵抗があるかもしれませんが、未然・連用・命令には用例が存在しないわけですから、初学者の理解には何の影響もないと考えます。

 【形容詞型】や【形容動詞型】に活用する助動詞、或いは、特殊な活用をする《ず》の【左側活用】の概念が大切なものであることも前述の通りです。

 【意味】に関しては、総ての【例外】を排除して大原則だけを教えることを心がけています。

―験あらむ僧たち、祈り試みられよ。

という例文があります。「心の働きを表す語に接続する《る・らる》は自発だよ」と教えられた生徒は迷わず「自発です」と答えます。「自発の命令形って変だよね?」と説明して正解を導き出す問題ですが、初学の生徒には絶対に出題してはならない問題であると考えています。

 問題文探しには非常に苦労させられます。やはり讃美歌が役立ちます。イエス様がいて、私たちがいて⋅⋅⋅⋅⋅⋅、対人関係が明瞭であることが最大の魅力です。典型的な例文を紹介します。

―まことの光を我らに照らして、光の中をば歩またまへ。

神様は今、照明係として私たちに光を照らしてくれています。ですから歩き回ることなどできません。「歩」んでいるのが「我ら」であることは明らかです。下線部の《せ》の意味が【使役】であることを容易に説明することができる例文です。

 

Ⅴ キチンと読む古典

 私は、「古典はキチンと読むべきだ」と考えます。「細かなことにはこだわらず楽しく読むべきだ」という考えも悪いものではありません。しかしながら、キチンと読むことによって初めて味わえる楽しさを教えていきたいと考えます。

 最後に、キチンと読むことによって味わえる楽しさの例を二つ挙げて、この報告の締めくくりといたします。

 『源氏物語』若紫の一節です。「かの小柴垣」(=女が出入りする謎の僧坊)を覗きに出かけて「若紫」を発見する場面に、

⋅⋅⋅⋅⋅⋅ のぞき給へば、ただこの西面にしも、持仏すゑ奉りて行ふ尼なりけり。

の一文があります。「覗いてみたら尼さんだった」で済ませてはならない箇所だと確信しています。助動詞《けり》には物語文末に頻出する《けり》の他に、「気づきによる詠嘆」を表す《けり》があることを理解している生徒には、普通の僧坊だと思っていたために女性の出入りに不審を抱いていた源氏が、僧坊の主が尼であったことに気づき、総てを納得したシーンなのだという正しい理解が可能になるのです。

 『徒然草』の加茂の競馬の一節です。「危険な高木の上で居眠りをしている法師」を見た雑人が、

―世のしれものかな。かく危ふき枝の上にて、安き心ありてねぶるらむよ。

と陰口をします。殆どの生徒が下線部の《らむ》を【現在推量】の助動詞であると解釈します。しかしながらこの「法師」は今、「雑人」たちの目の前に明らかに存在しています。《目の前の事実に接続した「らむ」は原因推量の助動詞》なのです。この「らむ」を《原因推量》で解釈して初めて、この陰口が陰口として正しく機能するのです。

おわりに

 日本の古典学習が大きな危機をむかえていると考えます。大学で教鞭をとる知人から、「古典を専攻する学生が驚くべきスピードで減少している」との話を聞きます。大袈裟な言い方ですが、古典を否定することは、私たち日本人自身を否定することであるはずです。古典の復権を目指すには、初学者に【古典嫌い】をつくらないことが重要であると確信しています。この報告が、初学者に古典を教授する先生方に少しでも役立てばこれにまさる幸せはありません。

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著者略歴

  1. 益川 敦

    頌栄女子学院中学校・高等学校教諭。
     学習院大学大学院人文科学研究科国文学専攻博士前期課程修了。専攻は平安女流日記文学(特に『蜻蛉日記』)。
     大学院の2年目から豊島区の私立川村学園に専任として、11年間勤務した後、港区の私立頌栄女子学院に移籍して現在に至る。古典学習の初学者に古典の楽しさを伝えることをライフワークと考えている。
     学習院高等科在籍時に、高橋新太郎・日笠祐二両先生から勧められ、松尾聡先生の著述と出会ったのをきっかけに《解釈文法》に関心を持つようになり、古典研究を志す。大学・大学院では、大野晋先生の教えを受けながら、吉岡曠先生・木村正中先生との出会いを通して、細やかな訓詁注釈に立脚した文学研究の大切さを知り、更に、檜谷昭彦先生(当時、慶應義塾大学教授)・高橋正治先生(当時、清泉女子大学教授)に師事して新しい文学研究の方法を学び、現在まで研究を続けている。
     著述に『平安文学研究 生成』(2005年 笠間書院)収録の、「蜻蛉日記論 ~兼家の居場所~」がある。
     2001年からは母校学習院大学で、教育実習事前講義の臨時講師を務める。また近年では、歌舞伎鑑賞の事前指導に力を入れていることが評価され、2010年以来、国立劇場のホームページで事前指導の様子が紹介されている。
     20年来の趣味である釣りは、スポーツニッポンでしばしば紹介されるほどの腕前。

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