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教室からの報告『山月記』

教室からの報告『山月記』(4/全4回)

(神奈川県立翠嵐高等学校 榊原利英)※ 執筆者の勤務校は、執筆当時のものです。

文章練習 三連戦(授業展開2)


 整理の成った表を見ていくと、それぞれの問題について李徴が言っていたことを、簡単に全編を通して見ることができる。これに続く授業は、クラス共通の材料から出発して、それらが含む問題について、生徒に考えさせるための文章練習である。プリント4(後掲プリントには、考えるべきことが箇条書きされているが、それぞれについて口頭で補足説明する。プリント5・6も同趣向のもので、考えるべき要素は五つあるのだが、それぞれに関連するから、そのクラスの表の整理の状況に合わせて三回分を選べば、結局はすべての問題について考えたことになる。)作文が苦手な生徒であっても、表の整理さえできていれば、示された問題について自分なりの考えを深めることができる。文章の巧拙にはこだわらず、生徒が文章化しようとした考えを読みとり、他の生徒にそれを戻してやることに主眼を置いた練習である。各問題について、口頭で説明する事項をあげる。

○全体について〈考えていない感想はつまらないということを納得させる〉
 通読しただけで感想を問うと、李徴がかわいそうとか、逆に、李徴は自分のことだけ考えてひどい男だとか、表面を読んだだけでの答えが返ってくる。そう感じたのだから仕方ないというのではなく、それがつまらないということを、それで終わりにしたのでは「山月記」はつまらないということを、生徒が読み落としていることを補足、確認して、生徒に納得させる。(授業の成否はこの説得にかかっている)冒頭に書かれていただけで生徒は忘れてしまうのだが、李徴は、妻子を養うために「節を屈して」賤吏となったのであって、それが発狂して虎となった直接の原因である。つまり、山中にこもり詩作に励むだけなら、虎とはならなかったのである。李徴が、自分のことだけを考えるエゴイストだという単純な解釈は捨てなければならない。李徴の境遇に同情するというのは、袁惨と同じ立場に立つということだろうが、それでは、人喰い虎として生きようとしている李徴をどう考えたらいいのか。自分が李徴に喰われるとしたら、李徴がかわいそうも何もないだろう。虎になりもう詩が作れない李徴に同情して涙するだけの人は、この授業では笑われる。

○虎になったことについて〈李徴が見出した答えについて考えさせる〉
 李徴がどうして虎になったのかという問い方は有効でない。最も正確な答えは、「分からない」ということだからだ。虎になったことを、李徴がどう受けとめたのかが問題だ。李徴の見つけた答えにしても、内心の醜さにふさわしい外形になったのだとすれば、地球上、虎ばかりになってしまう。李徴がそう考えたことに意味があるだけである。「こんな人間だから獣に身を堕とすのだ。」という嘆きに至っては、親友以外、それに耳を傾けるものはいないだろう。「虎になって初めてできたことは何なのか」・「虎になるまでに、李徴はなぜそのようなことに気づかなかったのか」・「虎となった李徴にはたして救いはあるのか」といった問いかけで、生徒に考えさせる。

○詩家となることについて〈即興の詩だけが、袁惨たちの心を動かしたことに注目させる〉
 李徴の詩は、即興で作ったあの一作品以外、後世に伝わっていない。詩友と「切磋琢磨」せず孤高であったことが、詩家としての名があがらない理由のすべてではないだろう。存命中不遇でも後世評価されるという孤高の天才は少なくないが、李徴の詩については、袁惨の「微妙な点において」欠けるという評価に従わざるを得ない。問題は、李徴が自分の詩の欠点に気づいていたのかということであり、李徴が自分の詩が評価されないことを、どう解釈しているかという点にある。そして、李徴の即興の詩が、人々の心を動かしたという事実が、この問題を考えるヒントになる。李徴は、虎になって初めて、人の心を動かす詩を作ることができたことになる。ただし、そこに「詩人になり損なって虎になった哀れな男」の作った詩であるという説明が必要なのが、なんとも皮肉である。

○人との交わりを絶ったこと〈李徴の自嘲癖について考えさせる〉
 表に整理したとき、李徴の述懐は常にこの欄に戻ってくることに気づかせたい。虎となった気持ちを説明して、すっかり虎になれば幸せになれるといい、同時にそれを恐れていると説明する。ところが、すぐ、「この気持ちは誰にも分からない」と思ってしまうのだ。「同じ身の上のものでなければ」と言うが、そうそう虎に変身する男がいるわけがない。せっかくの即興の詩を「お笑い草」と言い、「誰一人俺の気持ちを分かってくれない」と言って、ほえるのである。李徴がすっかり虎になってしまえば、もう人との交わりを持とうとしてもそれはできない。人を襲って食らうということしかできないのだ。ただの虎でなく、「人喰い虎」に変身したことにも意味があるのだろう。袁惨に、「帰りにこの途を通らないでくれ」と注意するのだが、意地悪く読めば、友達でない他の通行人なら自分の餌になっても仕方ないということなのだろうか。自ら命を絶てないのなら、李徴は、どうして、袁惨に自分を殺してくれとは頼まないのか。この問いかけで、生徒は李徴について、さらに考えることになる。

○妻子のため賤吏となったこと〈李徴の愛情について考えさせる〉
 旧友に、妻子の向後を託し、虎になったことは明かさず、ただ死んだと告げるように頼む。粛然とした別れの場面なのだが、李徴はどうして、「己の詩業」と妻子の将来を依頼する後先にこだわるのか。虎になった男の妻や子として生きていくのは確かにつらいだろう。但し、死んだとだけ伝えれば、妻子のために気に添わない職を得た自分なのに、妻子を見捨て顧みなかった男と思われることになる。虎となったと告げれば、妻子が会いに来ることを心配したのだろうか。妻や子にとって、自分たちが捨てられたと思うのと、李徴が人喰い虎になっていると知るのとどちらがつらいか、李徴には分からないはずだ。「妻の心を純白のまま」にしておきたいと書き残す「こころ」の主人公に自分勝手なところがあるとするなら、李徴も、最後の最後まで自分を捨てられなかったということだろうか。

虎とならないでいる不幸(評価・おわりに)


 表の整理、三回の文章練習で、【研究】にある問題については、もう十分に考えている。解答を確かめ、文章練習で集約した他のクラスの生徒の考えも示して、作品の主題について考えさせてみる。どれくらい深く考えてくれたかは、例えば次のような設問で確かめることができる。

○袁惨は「懇ろに別れの言葉を述べ」(三一ページ・16行)とあるが、具体的にどのようなことを言ったのだろう、想像して記しなさい。

 「妻子のことは心配するな」という一言は、ほとんどの生徒が思いつく。へたな慰めの言葉が意味を持たないことが分かればよい。「俺の気持ちは分からない」という友に、それでも「お前の気持ちはよく分かった」と言うのが親友だろうか。
 李徴の悲劇に、醜い内面を持ちながらも、虎とならないがためにそれに気づかず、相変わらず周囲の人々を傷つけ続けている不幸を思うべきである。

山月記プリント4


 (了)

 

精選 文学国語

※『山月記』(中島敦)は、『精選 文学国語』に採録しています。
虚構作品の人物描写と、漢文訓読体を取り入れた格調高い文体を味わう小説教材です。

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