【著者インタビュー】「憲法への招待」著者:渋谷秀樹先生(2/全5回)
昨年の動画配信で大好評だった、「憲法への招待」※の著者・渋谷秀樹先生のロングインタビューの内容を全5回の連載にまとめました。
※『精選 論理国語』(明治書院)の採録教材
第1回「高校の先生や高校生に伝えたいこと」
第2回「法学における《解釈》の限界と可能性」
第3回「国語科に期待されること」
第4回「法律の現在とこれから」
第5回「法学部進学指導について」
第2回「法学における《解釈》の限界と可能性」
ーー解釈の限界と可能性について教えてください。
法はギリシャ・ローマ時代、中国、メソポタミアなど古く遡ることができます。ハンムラビ法典は有名ですね。
法はどういうふうに作られていったかというと、具体的な紛争が生じた場合にこの場合はこういうふうに解決するのがいい、と紛争を裁く裁判所のような組織が具体的な事例において出した結論を集積して固めていったものです。
また、こういう場合は罪となり、こういう場合は罪とならない。こういう場合の契約をめぐる紛争は、この人が勝ちでこの人は負けだと結論を出していきます。それを積み重ねて、そこから抽象的に文章を作り上げたのが、法のつくられていった伝統的な過程なので、どうしても内容は抽象的なものになります。
抽象的であるいうことには良い面、悪い面、両方あります。将来発生するそれまで予想できなかった事態に対して、言葉が抽象的であれば対応できますが、ガチガチで具体的な事しか書いてなければどういうふうに対応し解決すれいいのか困ってしまいます。それが争いとなってまた裁判になる。
そういう場合に、抽象的である法律、たとえば憲法第二一条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と規定しています。非常に抽象的ですね。そもそもある事が表現と言えるかどうかということ自体の判断は難しい。寝ている間の寝言は表現ですか、工事の音や飛行機の音は表現ですかというと、やはり表現とは違います。
そこで、「表現」とはそもそも何かという解釈をする必要がでてくるのです。私は何らかのメッセージをそこから読み取れるものが表現であると思っています。必ずしもそれは言葉とは限らない、活字とも限らない。無言のパフォーマンスでもそれによって何らかのメッセージを相手に伝えることができます。手話もそうです。言葉ではないけれども手話によってメッセージを伝えることができます。
つまり「表現」という言葉は抽象的だけれども、そもそもなぜそれがこの条文に規定されたのか、一旦そこまで遡って、問題となっている音やパフォーマンスというものを見た時にメッセージ性があるかどうかによって表現かそうでないかを見分けることができるのです。
解釈というのは、なぜその条文ができたのか、なぜこういう言葉が使われたのか、と遡った上で具体的な出来事に当てはめて考えると答えがでてくると思います。