『精選 現代の国語』単元6「人と動物、共存の場所」解説
解説(市川中学校・高等学校 南信彦)
【解説】 祖田修著「人と動物、共存の場所」
デカルトは普遍的理性を宿す人間を前提に、精神を優位とする物心二元論や機械論的自然観を展開した。デカルトは同時に、動物は人間のような理性・精神は持たず、諸器官の配置に従って活動しているにすぎないものであり、機械と同様の存在であると考えた。
これらの考え方は近代社会における人間中心主義へと展開していく。主体的に理性を行使する人間に対し、自然や生物はもっぱら主体を行使される客体にすぎないという考えは、人間による自然の過剰な収奪を招き、乱獲や環境破壊を引き起こしていった。
これらの問題が深刻化していった二十世紀後半より、人間中心主義を批判する動物倫理や環境倫理の考えが発展していく。これらの中にはさまざまな立場があるが(このあたりについては、「参考文献」の鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』や、伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』に詳しい)、本文中でも言及されたレオポルドの土地倫理を源流に持つ「生態系中心主義」は、筆者の立場に近いものである。生態系中心主義は生態系全体の維持・保護を目標とする考えであり、そのためには野生動物の頭数管理をはじめとした人為の介入も必要であると考える。
実際のところ、人間も生態系の一部を構成する存在である以上、生態系の維持には人為の介入が必然となる場面もある。例えば里山は、人の手が入ることによって生態系や生物多様性が維持される空間である。「参考」の村上陽一郎「自然・人為・時間」は、「自然」を考える際の人為の徹底を次のように述べる。「『自然』としての『人為』を『人為』的に問題とするという、無限の自己言及を誠実に行うこと以外にはなかろう」「われわれは如何に人為を徹底させるか、に意を用いるべきなのではなかろうか」。
むろん、人間による自然の管理とはいっても、動物や植物の「声なき声を聴き」、「感動と畏敬、祈り、感謝」に裏打ちされた、謙虚な「怖れながらの管理」」の必要性を、筆者は訴えている。これは、他の生物に精神の存在を認めず、あくまで客体として収奪の対象とみなす人間中心主義とは大きく異なる立場であるといえよう。