授業づくりのヒント『大鏡』での実践を例に(1/全4回)
はじめに
「花山天皇はあまりにも鈍い。どうして簡単に騙されてしまったのだろう。」——『大鏡』の『花山天皇の退位資料②』を読んだ多くの生徒が抱く、純粋な疑問である。
出家当夜に、道兼は三度、花山天皇に大きな嘘をついている。
«『花山天皇の退位』現代語訳資料②より»
①お移りになってしまったからには。 本当は道兼が「手づから取りて、春宮の御方に渡し奉り給ひてければ(自分の手で取って、皇太子の御方にお移し申し上げなさってしまったので)」であった「神璽・宝剣」を「渡り給ひぬるには(お移りになってしまったからには)。」と言い逃れている。
②うそ泣き 「しばし(しばらく(待て))。」と言って「弘徽殿女御の御文」を取りに戻ろうとする花山天皇に対して道兼が、「いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ(どうしてこのような気持ちにおなりあそばしなさってしまわれるのか)。」と言ったときの「そら泣き(うそ泣き)」。
③必ず(再び)参上いたしましょう。 「…必ず参り侍らむ(必ず(再び)参上いたしましょう)。」という道兼の言葉を聞いた花山天皇ははじめて、「我をば謀るなりけり((さては)私をだますのであったのだなあ)。」と言って、陰謀に気付くこととなる。確かに鈍いに違いない。
筆者は、生徒の疑問に対する解答のヒントが、『肝試し資料①』にあると感じている。花山天皇から肝試しを命じられた、藤原兼家の三人の男子、道隆・道兼・道長の姿を描き、道長の卓越した胆力を礼讃するという、この『肝試し』を、少し違った視座で読むことにより、花山天皇や藤原道兼の新しい側面を見て取ることができるのだ。
まず、「『肝試し』関係見取り図右図」に書き込まれた三兄弟の肝試し経路の難易度を比較してみたい。そこからは、肝試しの成否によって区別された「道長 対 道隆・道兼」とは全く異なる、「道隆・道長 対 道兼」という構図が明らかになるのではないだろうか。その胆力を比較したとき、道隆・道長に比べて大きく劣った道兼像と、そんな道兼に対してさりげない心遣いをする花山天皇の姿が浮かび上がる。『肝試し』に描かれる道兼は、花山天皇の心遣いによる難度の低いコースすら克服することができず、花山天皇の心遣いに気付くこともできない愚鈍な男なのである。
そんな道兼に長所はなかったのだろうか。筆者は、道兼に、人並み外れた優しさがあったのではないか、と想像している。そして、花山天皇も、そんな道兼の優しさを心から愛していたに違いない。だからこそ花山天皇は、道兼の「御弟子にて候はむ」の言葉を疑うことができなかったのである。
そう考えると新しい疑問が生まれる。並外れた優しさを持ち、その上、愚鈍であるとも言える道兼が、周到な嘘を積み重ねて、花山天皇を出家させるという陰謀を遂行できるはずがないのである。
この疑問についての解答は比較的容易であろう。「総ての黒幕は兼家」なのである。愚鈍な道兼が、父親の命令に絶対服従であったことは想像に難くない。そこには、策略家としての兼家の怖さもしっかりと描かれている。『花山天皇の退位』で兼家が「御送りに添へ((帝の)お見送り(のご警護)としてお添えになっ)」たのが、「おとなしき(思慮分別のある)」「いみじき(屈強な)」「源氏の武者」であったことの意味を深く読み取りたい。兼家は、道兼が父親の命令通りに動くことは確信している。花山天皇が、道兼を疑わずに出家に踏み切ることも確信できている。唯一の懸念が、「花山天皇に本気で同情してしまう道兼」だったのである。兼家は、「いみじき武者」を準備して、道兼を無理矢理出家させようとする勢力の出現に備えるだけでなく、花山天皇に同情した道兼が万一「御弟子にて候はむ」としようとしたときに、道兼を説得する「おとなしき武者」まで準備したのである。
『肝試し資料①』とともに読み、花山天皇と藤原道兼について、様々な視座から考えた上で『花山天皇の退位資料②』を読解してほしい。そんな思いで実践した全7時間の授業の報告である。(続く)
(略系図・見取り図は、明治書院『新 精選 古典B 古文編』・同指導書より掲載。)
※この連載は、『国語の窓3号』に掲載しています。