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おじいちゃん先生が語る『舞姫』講座

おじいちゃん先生が語る『舞姫』講座「序にかえて」

「序」にかえて


—— ある日曜日—の朝食後のことである。高3になる孫娘がわたくしに言った。

 

「『舞姫』が発表されたとき、ベストセラーだった?」

 

「そうさな。単行本じゃなくて『国民之友』っていう雑誌に発表されたんだが、その雜誌の発行部数は2万3千部だったそうだ。単行本とか雜誌とか、そういう本の種類にもよるし、小説だとか学術書だとか、本の内容にもよるが、いずれにせよ今だって2万3千部という数字はすごい数字だと思うよ。それも『舞姫』の場合は明治20年代前半という、まだジャーナリズムも未発達、読書人の数も多かったとは思えない時代のことだということを考えれば、2万3千部という数字は、ベストセラーの上に⟨超⟩がつく数字と考えていいんじゃないか? ところで、なぜ?」

 

 「私の書いた『The Dancing Girl 英訳「舞姫」』もたくさんの人たちに読んでほしいから」

「そうだな」

「鷗外はどうしてあんな古文みたいな文体であんな小説を書いたの?」

 「まなちゃんも知ってのとおり、いまみんながふつうに書いてる<言文一致体>の文章の完成を明治30年代後半の漱石のデビューと考えるのは妥当な考えだと思うよ。『舞姫』が発表されたのは明治23年だったけど、その後書かれた明治20年代の小説には、古文体で書かれている作品も少なくない。だから鷗外があんな文体で小説を書いたってことは、当時一般に使われていた文体に倣ったまでで、特別の意味があったわけじゃあるまいさ。詳細は少し説明の必要があるがね。それより、鷗外がなぜあんな内容の小説を書いたのか、という問題のほうが大きい問題でしょ。つまり作品のモチーフ…」


—— そのとき続けてわたくしは孫にこんなことを語った。

 なぜ鷗外があんな作品を書いたかについては、鷗外の妹の小金井喜美子の証言などいろいろ説があるがね。ただおじいちゃんはそういう説をあまり信じたくないんだよ。理由はね、鷗外が『舞姫』を書いたときの意識は、ドイツ留学時代に学んだ、文学というものについての日本とはちょと違う考え方や、ヨーロッパの近代精神というものを小説という表現形式を使って描くということだったと考えたいから。

 そのことは、詳しくはまなちゃんが大学に行って、もっと文学というものをたくさん勉強してきてから、議論する機会があったら議論しよう。いまは、『舞姫』が書かれた関連事項について、ほんの少しだけ話しておこう。

 鷗外が東京大学医学部を卒業したのは、明治14年7月だった。なぜ7月かというと、当時は外国と同じように9月入学7月卒業という制度だった。今のように東京大学が4月入学3月卒業という制度になったのは大正9年で、翌年には官立大学と高等学校が新制度に改めた。教科書に載っている漱石の『心』にも旧制度下の大学が書かれていたよね。

 大学を卒業した鷗外は「洋行」を強く望んでいたんだけど、卒業成績が「洋行」の条件に合わなかったんで、文部省枠での留学のエントリーに洩れちゃった。で、友人のアドバイスもあって陸軍省に就職して軍医になった。陸軍省枠での「洋行」に期待をかけたんだろうよ。この「洋行」という言葉、いまはもう死語になったけど、当時はものすごく重い意味をもった言葉だったんだよ。「洋行帰り」という言葉があってね、ヨーロッパに留学した人の帰国後の人生は、「出世」が約束されていたわけ。「出世」って言葉の意味、解る? 社会的ステータスをゲットすること。

 鷗外は大学を卒業して三年後の明治17年8月24日、陸軍省枠留学生として、緜楂勒(メンザレー)というフランス船で横浜港を出航したんだよ。そうして、その日の夕方この前の遠州灘を通った。背後に見えた夕陽の富士山がたまらんきれいだったってよ。それから香港、サイゴン、シンガポール、インド洋からスエズを通って、地中海に出てフランスのマルセーユに着いたのが10月7日。ベルリンについたのは10月11日だった。つまり日本から48日かかってドイツに着いた。このことはうんと大事だから覚えといてね。

 ベルリンに着いた鷗外はその後ライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンと所を変えて留学生活を送った。このうちドレスデンを舞台に書いたのが『文づかひ』、ミュンヘンを舞台に書いたのが『うたかたの記』、ベルリンを舞台に自分の見聞や体験をフィクション化したりしながら書いたのが『舞姫』で、その三つをまとめて「ドイツ三部作」と言ってる。

 鷗外が四年間の留学生活を終えて、スイス、イタリア経由じゃなくて、ロンドン、パリ経由で帰国したのは明治21年9月8日だった。だから『舞姫』の主人公の帰国時期やその経路は鷗外の場合とは違う。同行者も『舞姫』の場合は天方大臣に随行しての帰国だけど、鷗外は上司の石黒忠悳という人に同行しての帰国だったんだよ。

 鷗外は帰国した翌年の2月24日、赤松則良の長女登志子と結婚した。それは2月11日の「大日本帝国憲法」が発布された二週間後のことで、全国的にその祝賀ムードが高まっていた時期だった。そのことは『舞姫』とは直接関わりがないように見えて、実は『舞姫』鑑賞のキーポイントの一つといっていいんじゃないか。赤松則良という人は海軍中将だけれど、本当は造船学者といってもいい人だと思う。晩年、磐田の図書館の北の、まなちゃんも知ってる赤煉瓦の塀のあるあのお屋敷に住んでね、登志子もあのお屋敷で亡くなったんだよ。

 結婚当初二人は日暮里駅の近くに住んだが、やがて上野の不忍池の畔の赤松家の持ち家に住んだ。いま「鷗外荘」のあるところで、今も当時を偲ぶ建物がある。まなちゃんも大学に行ったら尋ねてみるべし。そこは閑静なところだったようでね、そこのお屋敷の二階の一間で、明治22年の暮れに『舞姫』は書かれたんだよ。

 その原稿を、鷗外の弟の篤次郎という人が、『舞姫』の相沢謙吉のモデルと言われている親友の賀古鶴所に朗読して聞かせた。それを聞いた賀古はね、「オレの親分気分がよく書けている」といってとても喜んだって。それから篤次郎はその原稿を持って実家に行って、鷗外のお祖母さんやお母さんや妹の前でまた読んで聞かせた。読み進めていくうちにみんな真に迫って洟をすすって泣いたってよ。漱石の『猫』もそうだけど、名作ってね、朗読に堪えうる作品のことをいうんだよ。

 『舞姫』の主人公は太田豊太郎という人だったでござろう。子供のころ「神童」と言われてさ、東京大学法学部卒業まで学業首席を貫いて、内務省か司法省か、どちらかの超エリート官僚だよね。明治十年代のなかばごろ、二十歳代の前半にドイツ留学を命じられて、全身これ「国家有為の人材」たる〈プライド〉と〈使命感〉みたいな感じで洋行したんだよね。だけど年月が経つうちに留学目的から横道に逸れて、貧しい少女と内縁関係を結んで、免職処分に遭って窮地に陥った。免職にもいくつかのパターンがあるけどね、豊太郎の場合はそのなかでもいちばん罰の重い、今で言う「懲戒免職」だろうよ。だから彼は以後全く国の支援が得られなくなっちゃった。顔は真っ青、アタマ真っ白になったんじゃない?

 ところがね、天の神様が有能な「国家有為の人材」は見棄てなかったのか、外遊した天方大臣の秘書官を務める旧友の援助で大臣の知遇を得た。それで、大臣の「一緒に国に帰らんか」という言葉に乗っかって、妊娠中の内縁の妻をベルリンに残して帰国するその経緯と主人公の内面を、帰国途上のサイゴン港の船中で手記として綴るという体裁の小説だってことは解ってるよね。

 この小説の中で、どこがポイントかというとさ、なぜ主人公が留学目的から逸れていったのか、つまり自分とは何か、自分とはどういう存在なのか、人間とは何なんだという問題、それが一つ。それから主人公はなぜ妻をベルリンに残して単独帰国したのか、つまり、人生どう生くべきか、人間は社会的存在としてどうあるべきかという問題、そのことが一つ。その二つの問題が、この小説の主題で、鷗外の作品の創作目的もその人間にとってすこぶる大きな問題の提起にあったと思う。


—— しばらく黙ってわたくしの話を聞いていた孫がまた言った。

「英訳をやってる時は訳すことに夢中だったから、おじいちゃんからいろいろ話してもらったけど、もうほとんど忘れちゃった。ちょうど今学校で『舞姫』の授業やってる。もう一回筋を追って話してくれると助かるんだけどな。テストも近いし」


 「ムシのいい話だな。だけど授業が解らんじゃ困る。なら、まなちゃんが帰りの電車の中で読んで来られるように、おじいちゃんが毎日メールで解説文を送ってやるから、しっかり読んで理解したまへ」

 

 という次第で、次回からの文章は、わたくしがほとんど毎日孫に送ったそのメール文である。ただし、基本的にそのメール文に従いながら、言葉遣いなど必要に応じて補訂、また文章も加除してあることを断っておきたい。

※なお、文中、引用の『舞姫』本文は、原則として、大正4年12月23日、千章館発行の『塵泥』(国文学研究資料館発行の復刻本『塵泥』)による。


⇒「セイゴンの夜①「石炭をば早や積み果てつ。」」へ続く
 

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著者略歴

  1. 杉本 完治

    1944年静岡県磐田市生まれ。静岡県の公立高校で38年間教鞭をとる。定年退職後は講師として活躍。
    【主な著書】
    『キミが明日の主人公だ』(日本教育新聞社出版局、1987)
    『身体の不調は肝臓を疑え』(講談社、1988)
    『鷗外歴史小説 よこ道うら道おもて道』(文芸社、2002)
    『漢文文型 訓読の語法』共著(新典社、2012)
    『森鷗外 永遠の問いかけ』(新典社、2012)
    『森鷗外『舞姫』本文と索引』(新典社、2015)など

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