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おじいちゃん先生が語る『舞姫』講座

セイゴンの夜⑤「青年 太田豊太郎の一断面」

青年 太田豊太郎の一断面

 まなちゃんもたぶん気が付いていたと思うけど、冒頭第四文は、それまで比較的短文であった一文が一挙に190文字を超える長文になっている。

—— 次の引用箇所がそれです。


 五年前の事なりしが、平生の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで来し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもへば、穉き思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常の動植金石、さては風俗抔をさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。


  『舞姫』文中には、当然のことながら、主人公太田豊太郎の人間像について、さまざまな表現がなされている。たとえば、彼は幼時から大学卒業まで、学問一筋の人生を過ごしてきた男だった。そして大学時代もその「品行方正」を親友相澤謙吉から激賞されていたような人間だった。つまり豊太郎という人は、まるで「裃(かみしも)」を着用して畳の上に「端座」しているような人だということでござろう。

 ところが、作品冒頭部のこの引用部分には、そういう豊太郎とは少し違う豊太郎が描かれていることに気が付いたかな。それは、洋行五年後の現在から洋行当時の自分を振り返った自己認識として語られている。それは、いままであんまり指摘されてこなかったことなんだけど、おじいちゃんは、そこはちょっと注意しておきたいことなんじゃないかと思ってるんだよ。

 いったい、人間の青年期がどういう特徴をもった人生の一時期であるかについては、まなちゃんもこのまえ髙橋和巳さんの「自立と挫折の青春像——我が青年論——」という文章を読んだから、もう分かっていると思う。あの文章のなかで、髙橋さんは「青春はなによりも自己主張の季節」だと言っていたよね。そしてその時期に表に現れる具体的特徴は「未熟」「不安定」「傲慢」「単純」「純真」「向こうみず」などだと言っていた。そういう特徴がね、豊太郎にも見られるということなんだよ。

 たとえばさ、豊太郎は洋行時の紀行文を綴っていたという。これは特に珍しいことでもない。当時洋行した人たちの中にはかなり詳細に綴っていた人もいたことは事実。たとえばこんな具合。

 岩倉使節団って知ってるでしょ。明治四年にアメリカからヨーロッパ各国を視察した。そのとき書記官として随行した久米邦武という人が記録を残した。それが『特命全権大使 米欧回覧実記』だ。明治11年に刊行されたから鷗外も読んだかもしれない。それから、明治5年、成島柳北という人が洋行した時の日記が『航西日乗』。たぶん鷗外はこれを読んでいる。それから陸軍の軍人だった鳥尾小弥太という人が明治19年、洋行した時の記録が『洋行日記』。

 鷗外自身も洋行日記を綴っていた。『航西日記』という日記でね、漢文体で書かれている(鷗外は帰国するときもそのところどころでの記事を綴っていた。『還東日乗』がそれ。やはり漢文体で書かれている)。『航西日記』には、サイゴン川を遡る視界に入ったところについて、概略こんなふうなことが書いてある。


 サイゴン川の両岸は平地で、草木が繁茂し、ところどころに村が見える。まるで絵のようだ。民家は小さく室内は土床で、豚と鴨が同居している。


 豊太郎も、もしかしたらこんなことを書いていたのかも知れん。「目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬはなく」って書いてあるから。ところがその文を、あれから五年後の現在読み直して見ると、それは「穉き思想、身の程知らぬ放言」であって、「心ある人はいかにか見けむ」というのは、まったくお恥ずかしい限りだ、と言うんでしょう。

 だけど、その紀行文が「新聞に載せられて、世の人にもてはやされ」ていたときの豊太郎は、まさしく「自信の塊」だったに違いあるまいて。つまり彼は「傲慢」「単純」「向こうみず」を絵に描いたような青年だったんだろうよ。なにしろ自分が書いた文章が「新聞に載せられ」たというんだから、そりゃ「天狗」になるのも無理ない。いまだって自分の原稿が新聞に掲載されるなんて、そうそうザラにあることじゃない。そういうことを豊太郎は知っていたんだよ。だから、そのことを口では言わなくたって、豊太郎の意識がどういうものだったかさ。彼は、「オレはそんじょそこらの人間とは、チョットわけが違う人間なんだぜ」って、きっとそう思っていたに違いあるめ。

 そしてね、そういう一見鼻持ちならないような人間たちが、明治という時代あるいは社会の建設に大きな役割を果たしていたのだということに注意することは、いいことだと思う。実際、東京大学という大学の開学目的というか存在理由が「日本という近代国家建設のリーダー養成」にあったことは明らかだ。そういう人たちの「傲慢」な態度と「使命感」は、おそらく紙の表と裏の関係でしょう。洋行途上の豊太郎の行動や態度に、明治日本の置かれた厳しい現実と時代のダイナミックスを読みとれたら、たいへんすばらしいのだがね。

「当時の新聞」

 で、その「新聞」。当時はね、原則的にはNewsを新聞、Newspaperを新聞紙と言ってたと思う。おじいちゃんの子供のころ、昭和二十年代の前半にも、まだそういう感じだったよ。だからほんとは「当時の新聞に載せられて」の「新聞」は「新聞紙」とあるべきかもしれない。

 江戸時代、「新聞紙」は「かわら版」と言ったよね。その「かわら版」は幕府公認の印刷物ではないから、その記事内容も今で言う「三面記事」が多かったんじゃないかな。ところが、文久二(1862)年一月、ちょうど鷗外が生まれた年の生まれた月に、『官板バタヒヤ新聞』が創刊された。バタビアというのは当時オランダの植民地だった今のジャカルタ。そこで発行された新聞を、「洋書調所」の学者たちが翻訳した。記事は世界各地の情報が盛られていたから、幕府や諸藩の役人たちの注目するところだった。

 そのころ、井関盛艮(いせきもりとめ)という人がいて、明治2年に神奈川県知事になった。彼は自分の側近に、陽基二、子安峻という二人の人物を置いた。その二人の努力によって、日本で初めて創刊された西洋型新聞が『横浜毎日新聞』だ。創刊は明治3年12月8日だが、まだその時には日本は陽暦になっていなかった。今の暦で言うと、明治4年1月28日のことであった。紙面は記事と広告が半々だったという。広告がそんなに多いのはおそらく新聞社の経営上の事情だと思う。

 その後『東京日日新聞』、『郵便報知新聞』、『読売新聞』、『大阪新聞』、『朝日新聞』などが続々創刊された。西南の役の二年後、明治12年の『東京日日新聞』、『郵便報知新聞』、『朝野新聞』、『東京曙新聞』、『読売新聞』以上五紙の一日平均発行部数は約5万部だった。麹町区、神田区、日本橋区、小石川区、本郷区など当時の東京府十五区の人口が約67万人余りだったというから、そんなに多くの人たちが新聞を購読していたわけじゃなかろう。おそらく新聞の購読者たちは、それなりの階層に属する人たちじゃなかったのかな。そして、明治15年になると、福沢諭吉の『時事新報』が創刊された。大衆新聞時代の到来だった。

 そうした状況下、明治を代表するジャーナリストであった森田思軒は明治18年11月、英・仏・独を訪れた。その時の記録が『船上日記』で、同文は翌年1月、『郵便報知新聞』に掲載された。

 鷗外は十歳そこそこで、『読売新聞』に寄稿文を寄せ、その格調高い文章に読売の記者たちが舌を巻いた、というエピソードがある。豊太郎の紀行文の掲載紙は、作品がフィクションだからもちろん特定はできない。だが、森田思軒がその紀行文を『郵便報知新聞』に掲載できたのは、たぶん彼が同紙の記者だったからだ。鷗外がその寄稿文を『読売新聞』に掲載されたのは、その文章やその内容が卓越したものであったからだろう。そうしてみると、豊太郎が新聞にその文章を掲載されたのは、その新聞社に豊太郎をよく知る人がいたとか、豊太郎の文章が「世の人にもてはやされ」るに充分な、海外事情紹介の魅力あふれる文章であったからのいずれかの理由によるものだと思う。いずれにしても、二十歳をちょっと過ぎたぐらいの若い人の文章が、新聞に掲載されたこと自体、並のことじゃないと思うよ。

 

※なお、文中、引用の『舞姫』本文は、原則として、大正4年12月23日、千章館発行の『塵泥』(国文学研究資料館発行の復刻本『塵泥』)による。


⇒「セイゴンの夜⑥「ニル・アドミラリイ」」へ続く。

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著者略歴

  1. 杉本 完治

    1944年静岡県磐田市生まれ。静岡県の公立高校で38年間教鞭をとる。定年退職後は講師として活躍。
    【主な著書】
    『キミが明日の主人公だ』(日本教育新聞社出版局、1987)
    『身体の不調は肝臓を疑え』(講談社、1988)
    『鷗外歴史小説 よこ道うら道おもて道』(文芸社、2002)
    『漢文文型 訓読の語法』共著(新典社、2012)
    『森鷗外 永遠の問いかけ』(新典社、2012)
    『森鷗外『舞姫』本文と索引』(新典社、2015)など

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