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おじいちゃん先生が語る『舞姫』講座

セイゴンの夜②「客船内部の様子」

—— 冒頭文「石炭をば早や積み果てつ」に続く第二文は、主人公がイタリアのブリンヂイシイの港で乗船し、日本に向かう客船内部の様子が描かれている。そして第三文は、その船室内での乗客の時間の過ごし方が説明されている。

外国航路の客船の船内構造

 明治21年、実質四年間のドイツ留学生活を終えて鷗外は、ロンドン、パリ経由で帰国したことは前に話したよね。鷗外が乗船したのはフランスのマルセーユ。7月29日に出航した。サイゴン港に着いたのは8月25日だった。この間、27日間の船旅だった。だから、本文の少し後ろに「ああ、ブリンヂイシイの港を出でてより、はや二十日余りを経ぬ。」とあるが、その経過日数に関する記述はかなり正確な記述だ。

 鷗外の乗った船はフランス船で「亞瓦(Ava)」号。予想していたよりも小さく不潔だったということだが、豊太郎の乗った船もフランス国籍の船だった。どんな船だったかね。

 なぜ豊太郎の乗った船がフランス船だということが分かるのかというと、船がサイゴン港に碇泊しているということでそう判断できるんだよ。サイゴンという街は、インドシナ半島の先端近くからサイゴン川を少し遡ったところにあるよね。普通考えればさ、わざわざ内陸部に川を遡らなくたって、シンガポールから香港まで、海岸線をそのまま北上すればいいわけだよ。事実、一般の船舶はそういう航路だった。それをわざわざ川を遡っているのにはそれなりの理由があるのさ。

 世界史で勉強したと思うが、サイゴンは1862年、つまり鷗外が生まれた年、「サイゴン条約」によってフランスの統治下に置かれることになった。明治20年ころ、サイゴンはだいたい人口7万人ぐらいの港湾都市だったらしいよ。フランス政府はそのサイゴンに自国の客船を誘致してサイゴンの経済発展を謀ったんだよ。つまり、ヨーロッパから横浜に向かう客船がサイゴンに碇泊したということは、その船がフランス船だということになるわけさ。だからその船で日本に向かっている「夜毎にこゝに集ひ来る骨牌仲間」は船から上陸して「ホテルに宿」ってお金をつかってるんで、彼等はフランスに対する貢献者ということになろうよ。

風俗画報239号 その豊太郎の搭乗しているcabinは、「中等室」だったと。おそらく当時外国航路に就航していた客船でいう「二等室」ではないかと思う。その船がどんな船でそのcabinがどんな構造だったかはもちろん分からん。けど、当時の外国航路就航の船の様子を特集した雑誌(『風俗画報』)※図1があってね。それによると、もちろん船によって事情は異なるが、cabinは一等から三等まであって、それぞれのGradeによってえらい差があったそうだ。二等室は六人部屋でベッドが置かれている図2。それ以外の同室の客の利用する共同空間、豊太郎のcabinにはおそらく卓(Table)が置かれていたんだろうよ。そして、そのcabinには「熾熱灯」があったというから、たぶんこの船は最新鋭の船だぜ。

『風俗画報 239号』(明治34年発行)「客船乗込の図」

図2 『風俗画報 239号』(明治34年発行)「客船乗込の図」

 

——というのは、こんな訳さ。

 「熾熱灯」については、教科書の注でも「アーク灯」「白熱電灯」両説がある。アーク灯については漱石の『三四郎』にも出てくる。しかしいずれにしても電灯であることには変わりない。

 しかし当時、日本の一般家庭には「電灯」なんてなかった。そのことは、教科書で勉強した漱石の『こころ』を読めばわかるだろう。あの小説の「先生」は明治三十年代のおそらく初めころに学生生活を送った人だった。伝通院近くのその先生の下宿にはまだ電灯なんてなかった。照明器具は「洋燈(ランプ)」だった。Kが亡くなった夜の描写のなかに「洋燈(ランプ)が暗く点っているのです」ってあったよね。そしてその『こころ』を書いた漱石先生っちに電灯が点ったのは明治の末期、44年ころのことだったと、漱石の奥様が証言してるよ。漱石が「電灯なんてゼイタクだ」って言ってたんだよ、きっと。だからふだんは夜はロウソク(行燈)か洋燈。

 日本にね、電灯の普及が進んだのは大正に入ってからだったという研究結果もある。おじいちゃんの子どもの頃には「電灯」はあるにはあったが、丸い球状の電球でね、40㍗が普通だったから、いまのようにこんなに明るくなかった。むしろはっきり言って暗かった。日本の夜がこんなに明るくなったのは、つい最近のことなんだよ。

 にもかかわらず、豊太郎の乗った船には「電灯」が設置されていた。しかもその電灯の光は「晴れがまし」いほど明るかった。豊太郎の乗っているフランス船は、鷗外が帰国の時に乗ってきた「亞瓦(Ava)」号よりはるかに立派な、当時としては最新鋭の船だったことは、ほとんど想像に難くない。

 
 つまり、そういう船に乗っている豊太郎には、自分が文明というものの恩恵をモロに受けてるという自意識、もっといえば、自分はそういう恩恵を受けて当然の人間なんだという優越意識が心の奥にあるということだよ。

 

外国航路客船乗客の「暇つぶし」

 寺田寅彦って知ってるよね。明治~昭和にかけての日本を代表する物理学者。熊本時代の漱石邸をしばしば訪れ、俳句など教わった。『吾輩ハ猫デアル』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルとも言われている。

 その寅彦、明治42年にドイツに留学した。その時のヨーロッパに向かう船内の様子を、日記につづって残した。寅彦の洋行は鷗外の洋行より二十五年も後だったから、その所要日数も鷗外の時より若干短縮されている。だけどなにしろ東シナ海からインド洋、紅海を通って地中海に出る長旅だ。搭乗期間中、コンサートが開かれたり綱引きなどの競技が行われたり、いろいろやって「旅の憂さを慰め」ていたようだ。鷗外はその時々、漢詩を作っていたことが『航西日乗』という日記で分かるけれども、一か月半という時間をそんなことばかりしているわけにもいくまい。当時の外国航路の船の中※図3では、輪投げだの囲碁・将棋など、そんな室内ゲームもたくさん行われていたんじゃないかな。

『風俗画報 第239号』(明治34年発行)「船中遊戯の図」

図3 『風俗画報 第239号』(明治34年発行)「船中遊戯の図」


 「骨牌」はたいてい「カルタ」と訓まれている。「骨牌」などという漢字を見れば、これは麻雀(マージヤン)じゃないかと思うけれども、そうじゃないらしい。「かるた」にもいろいろあって、われわれがふつう「かるた」と言っている「いろはかるた」から「百人一首」、「花札」、「トランプ」などまで各種。要するに「遊戯用カード」を「骨牌」といったと思えばよい。『舞姫』の場合は、たいていの注釈が「トランプ」になってる。

 トランプという遊びが日本で行われるようになったのは、明治25年に出た『風俗画報』という雑誌※図4に、明治10年少し前からだと書いてある。しかもそのトランプ遊びは上流社会に生きる人々の遊びだったそうだ。明治20年少し前にはカードも国産化されたということだ。

『風俗画報 第38号』(明治25年発行)「トランプ囲碁及歌かるた遊嬉の図」富岡永洗 画

図4 『風俗画報 第38号』(明治25年発行)「トランプ囲碁及歌かるた遊嬉の図」富岡永洗 画

 
 だとするなら、「夜毎にこゝに集ひ来る骨牌仲間」の遊んでいるトランプ、帰国の途に着く前にベルリンあたりで買って来たもんじゃない?そしてその「骨牌仲間」、おそらく「洋行帰り」の人々で、「ホテル」に泊まれるような人たちだから、上流社会に生きる人々であることは疑いようもない。

 ということは、本来なら豊太郎だって上流社会に生きる人であり、当然そのプライドも強かったことはまず間違いない。鷗外はそういうことだということを充分承知の上で「骨牌仲間」という言葉を使っているだろうし、そのことは、当時の『舞姫』の読者たちも充分理解して読んでいたと思うよ。だけど、我々現代人は、明治20年ころは、そういうことだったということをなんにも知らないもんだから、つい軽く読んじゃう。でもそれでは『舞姫』という作品は分からんだろうよ。

 こんなふうに、『舞姫』のイントロ部分には、我々が知らないような「明治」がけっこうたくさん書かれていて、それがみんな作品の読解に重要な役割を果たしている

 ——これから少し、そのあたりを話してあげよう。

 

※なお、文中、引用の『舞姫』本文は、原則として、大正4年12月23日、千章館発行の『塵泥』(国文学研究資料館発行の復刻本『塵泥』)による。


⇒「セイゴンの夜③「熾熱灯の光が豊太郎にはなぜ《徒》に見えるのか」」へ続く。

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著者略歴

  1. 杉本 完治

    1944年静岡県磐田市生まれ。静岡県の公立高校で38年間教鞭をとる。定年退職後は講師として活躍。
    【主な著書】
    『キミが明日の主人公だ』(日本教育新聞社出版局、1987)
    『身体の不調は肝臓を疑え』(講談社、1988)
    『鷗外歴史小説 よこ道うら道おもて道』(文芸社、2002)
    『漢文文型 訓読の語法』共著(新典社、2012)
    『森鷗外 永遠の問いかけ』(新典社、2012)
    『森鷗外『舞姫』本文と索引』(新典社、2015)など

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