評論文読解のキーワード「国家」
1-2-11a「国家」
ここでは、「国家」についてお話します。
まず、「国家」の本質としての暴力性について考えます。
「国家」は一部の大学でしか出題されないテーマですが、出されるときは真正面から論じられます。
かなり踏み込んだ話をしていますので、覚悟してください。
説明を少しでも簡単にするために、日本国籍をもっていることを前提にしています。
①暴力装置としての国家
ⅰ)暴力装置
国家とは暴力装置である――というと、国民の人権を無視する独裁国家を思い浮かべるかもしれませんが、そうではありません。
国家は、一定の地域を支配する政治権力です。
そこに住む人たちは、国家の意思に従うように強制されます。
たとえば、買い物をするとき、消費税を払います。
払いたくない、といって、君たちは拒否できますか。
できませんよね。
払わないと、ものを売ってくれません。
日本に暮らす人たちは、みんな、この消費税から逃れることはできないのです。
こうした社会制度は、国家が「一つの国」として成り立つために必要です。
が、そこで暮らす人たちみんなをむりやり従わせ、「一つの国」として一元化しようとする以上、その実態は暴力でしかありません。
国家には、暴力性が本質的に内在しているのです。
ⅱ)憲法
そう考えると、民主主義を標榜する国家は、根本的に矛盾を抱えていることになります。
民主主義は、多様な意見が存在することを前提とします。
多数決で物事を決めるのは、唯一の正しい意見などというものが存在しないからです。
大勢が賛成しているから、「とりあえず」その意見でいこう、というのが民主主義です。
ところが、その「とりあえず」が国家の意思として国家全体に強制されます。
民主主義国家は、民主主義として多様であることを求めながら、国家として一元的であることを求めるわけです。
国家として一つにまとめようとして、意見の多様さが失われてしまえば、民主主義としては死ぬ。
「憲法」は、この矛盾に対する予防装置だといえます。
日本国憲法は、前半で基本的人権を規定し、後半でそれを保障するための制度を規定しています。
憲法は、人権を制限しているのではなく、むしろ、国家という暴力装置から人権を守っているのです。
そうすることで、民主主義の根幹である意見の多様性を担保しようとしています。
私たちが自分の意見をもつことを抑圧されたり、意見の表明を邪魔されたりしたとき、憲法こそが国家と戦う武器になります。
いくつかの地域や国では、今でも、政府に反対する人たちが逮捕されています。
国家の暴力性の悪しき例といえるでしょう。
インターネットでは、不快なものまで含めて、さまざまな意見が飛び交っています。
それを安易に取り締まれないのはなぜか。
そうしたさまざまな意見が表明されていることこそが民主主義を成り立たせる前提だからです。
ⅲ)戦争
国家自体が暴力性を孕んでいる以上、国家同士が衝突して、戦争に至る可能性は常にあります。
経済的な側面から考えると、、、
近代には、経済的な単位である国家が富を求めて戦争を繰り返しました。
20世紀になると、世界が大きく二つに分かれて、二度の世界大戦と冷戦を経験します。
世界全体が豊かになるにつれて、経済単位が国家では収まらなくなり、それにしたがって、戦争の規模が大きくなりました。
ところが、グローバリゼーションが進む現代においては、逆に、その内部で具体的な戦争が起こりにくくなっています。
グローバリゼーションとは、世界全体が経済的に一体化していくことです。
生産も消費も、世界中の国々が互いによりかかりあいながら成り立っています。
だから、他国への攻撃が自国を経済的に痛めつけることになります。
東日本大震災の際も、日本の工場が止まることで、世界中の生産が停滞しました。
サプライチェーンという名の鎖で、世界中の工場がつながっているからです。
もちろん、だからといって、戦争の脅威がなくなったわけではありません。
経済的な損得だけで国家間の関係が語れるはずもありません。
それに、グローバリゼーションから外れた地域では、内戦や国家間の紛争がまだまだ続いています。
が、グローバリゼーションが戦争の可能性を引き下げたことはたしかでしょう。
「戦争は政治の一手段である」といわれます。
が、それが有効な手段でなくなりつつあるのが現代だといえます。
1-2-11b「国家」
「国家」の第2弾は、「国民国家」についてお話します。
②国民国家
ⅰ)3要件
近代国家は、「国民国家(nation state)」と呼ばれます。
国民国家は近代ヨーロッパに誕生した特殊な国家形態ですが、ヨーロッパが強大化するなかで、国家として認められる唯一の国家形態となりました。
国民国家の成立には、主権、領土、国民という3つの要件があります。
主権とは、誰がその国の支配者か、領土とは、どこからどこまでがその国の範囲か、国民とは、誰がその国のメンバーか、ということです。
ⅱ)国民
「国民国家」という名前からわかるように、これまでの国家形態と最も違うのが「国民」です。
それまでの国家には「国民」はいません。
いたのは「被支配民」であって、国家への帰属意識などほとんどありませんでした。
97年のセンター試験に出た島崎藤村の『夜明け前』には、明治維新後の村人が日本国民という意識をまったくもっていないことを嘆く主人公の姿が描かれています。
でも、君たちはどうでしょう。
自分を「日本人」だと思っていますよね。
ということは、明治以降に大きな意識の変化があったということです。
そもそも、日本という広い地域に、一つの言語や文化を共有する、一つの民族が暮らしていることなどありえません。
現に、戊辰戦争の際、新政府軍では共通の話し言葉がなかったそうです。
だから、使われたのは書き言葉としての漢文。
漢文はアジア地域の共通語であり、寺子屋でも「読み書き」として教えられていました。
しかし、話もできないようでは「俺たちは同じ国の仲間だ」という意識をもてません。
だから、学校教育を通して、「日本語」を国語として強制し、歴史や伝統を共有する同胞だと教え込むことで、「俺たちはこの国のメンバーだ」という意識を育てたわけです。
そうして生まれたのが「国民」です。
ⅲ)国家→民族
国民として統合された人たちは、自分たちを、一つの言語、一つの文化を共有する仲間だと意識するようになります。
それが「民族(nation)」です。
日本人のなかには、「大和民族が日本を作った」と素朴に信じている人がかなりいるようです。
が、実際には、歴史的な経緯は真逆です。
日本には、もともと、さまざまな言語や文化をもった人たちが暮らしていました。
近代になって、彼らの多くが「国民」として統合され、その結果として、「俺たちは大和民族だ」という民族意識が生まれました。
その反面、同化政策に抵抗した人たちが、たとえば「アイヌ民族」として少数民族になっていくわけです。
民族が国家を作るのではなく、国家が民族を作るのです。
ⅳ)想像の共同体
が、「おまえのもっている民族意識は人為的なものだ」と指摘されても、簡単に納得する人はまずいないでしょう。
私たちは日本に生まれ、日本人として暮らしています。
「私たちは日本人だ」という思いはきわめて自然です。
それを支えるのが、歴史や伝統と呼ばれる「物語」です。
たとえば、成人式。
大勢の女性が、振り袖を着ます。
でも、それって、本当に日本古来の風習でしょうか。
少なくとも江戸時代、振り袖を着られたのは、裕福な一部の人間だったはずです。
いやそもそも、成人式自体、戦後始まったものです。
日本の一部で行われてきた風習が、いつのまにか、日本全体の話にすり替わる。
近代に広まった風習が、いつのまにか、日本古来の話にすり替わる。
こうした「伝統の発明」が、「俺たち日本人はみんな昔からの仲間だ」という民族意識を作り上げたわけです。
実は、「伝統の発明」は今でも起こっています。
恵方巻き――あるコンビニがしかけた記念日商法。
バレンタインのチョコと同類です。
もしこれを日本古来の風習だと思っていたのなら、自分の身の回りにある「伝統」がいかに近代の創作物か、わかるはずです。
しかし、こうした物語が、日本人という民族意識を成り立たせているわけです。
原理的には、国家が、一つの言語、一つの文化、一つの民族からできている、などということはありえません。
ただの幻想です。
が、それを私たちは素朴に信じている。
日本には、同じ言語、同じ文化をもった同胞たちが暮らしている、と。
だから、オリンピックで日本人選手が活躍すると、会ったことも話したこともないのに、同じ日本人としてうれしかったりします。
このような状況を指して、国民国家は「想像の共同体」である、といいます。
もちろん、そうした想像は負の方向にも働きます。
たとえば、AさんがBさんを殺したという事件が、X国人がY国人を殺したと読み替えられ、ネットに、ヘイトスピーチがあふれかえります。
だから、「俺たちY国人はX国人に復讐すべきだ」という話になります。
もしその殺人事件が「~人だから」という理由で起こったのだとしたら、ヘイトクライムとして断罪されるべきです。
が、「加害者の国だから」という理由でその国やその国の人たちを差別したり傷つけたりすることを認めるわけにはいきません。
ナショナリズムが自国に誇りをもつことなら、そうしたヘイトスピーチこそ自国の尊厳を傷つけることにしかならないからです。
ⅴ)国民>国家
日本にはまだまだ世間という意識が残っているせいでしょうか。
国民は国家に従うべきだと考える人がかなりいるようです。
新型コロナ騒ぎの際も、国の「要請」が事実上強制される様子が見られました。
近代の社会観に従えば、社会とは、主体的に市民が作り出すもの。
ならば、国家こそが国民に従うべきです。
国民国家が想像であれ「共同体」であるならば、私たちは国民として、よりよき国家をめざして、国家に従うのではなく、主体的に参加していかなければなりません。
その方法がまずは選挙であり、そして、憲法に基づく告発です。
選挙で選ばれた国民の代表者が決めたことだから、と唯々諾々と従うのではなく、一人の国民として「それは違う」と声を上げることは憲法によって保障された権利です。
そうした少数者や弱者が声を発することができることこそ、憲法が求めている国家のあり方だといえます。
1-2-11c「国家」
「国家」の第3弾は、「国家」の今についてお話します。
③国民国家の限界
考えてみれば、国民国家は、あくまでも近代ヨーロッパに生まれた、特殊な国家形態にすぎません。
その成立は18世紀末フランス革命後だと考えられていますから、もう200年以上経った古くさい体制です。
現代の実情に合わない部分が目立ってきてもしかたないでしょう。
ⅰ)政治的な単位としての国家
政治的な単位として、国家は依然重要です。
国家間の問題は当たり前にしても、世界的な問題への実効性のある対処は、NGO(nongovernmental organization)やNPO(nonprofit organization)という組織にはなかなかできないことです。
曲がりなりにも存在するのが、世界政府ではなく、国連という国際組織であることは、現在の世界が国家という前提なしに成り立たないことを意味しているといえます。
ⅱ)経済的な単位としての国家
が、経済的な単位としては、国家は曲がり角に立たされています。
社会全体が豊かになるなかで、人々の暮らしを支える経済的な単位が「村」や「町」から「国家」へと移り変わったのが近代です。
より豊かになった現代は、「国家」の枠を越えて、人や物が交流する時代になったといえます。
それが世界化、グローバリゼーションと呼ばれるものです。
最近では、地方に行っても、東京と同じお店ばかりです。
地方に住んでいても、ネットを通じて、東京と同じものが買えます。
それを、地方も東京並になったと喜ぶ人もいるでしょうが、その地方としての特色が失われている状況は何か薄ら寒さを感じます。
経済の世界的な一体化は進んでいます。
が、その結果、世界が一元化を果たしてしまったら、それは本当に豊かになったといえるのでしょうか。
たとえば、GAFAM(Google・Amazon・Facebook・Apple・Microsoft)と呼ばれるアメリカの巨大企業は、データを通じて、実質、世界全体を支配しているとも言われます。
世界中どこに行っても同じサービスが受けられるというのは、一見すばらしいことです。
が、そのような多様性を失った世界に私たちは魅力を感じるでしょうか。
ⅲ)文化的な単位としての国家
近代国家が誕生することで、国家は文化の単位だと見なされるようになりました。
国民国家は、一つの言語を国民に強制します。
私たちは言語を通してこの世界を見ていますので、言語が共有されると、一つの文化をもつようになります。
が、それはあくまでも幻想です。
日本語と総称されても、実は、日本では方言と呼ばれるさまざまな言語が話され、そこにはさまざまな暮らしが営まれています。
日本文化と総称されても、実は、日本にはそれぞれの地域でそれぞれの文化が営まれているのです。
とはいっても、国家が文化的な単位として活躍する場面は多々あります。
国家が主導して文化を輸出することも行われています。
その商業的な成功例として身近なのが、Kポップでしょうか。
アメリカは、世界的な影響力を高めるために、軍事力や経済力だけでなく、映画や音楽などのアメリカ文化を広めることを重視しているといわれます。
日本では、特に伝統文化といわれる分野で、文化が国によって後押しされています。
人間国宝になるのは、伝統文化系の人ですよね?
現在では、アニメ作品が「日本文化」として広く紹介されています。
それらを「日本文化」として国家が推すのは、「これが日本だ」という国家としての同一性、ナショナル・アイデンティティと深くかかわるからです。
が、それでは文化を語りきれない、と現在では考えられていると知ってほしいと思います。
詳しくは、「文化」と「言語」の項をご覧ください。
1-2-11d「国家」
「国家」の最終回は、「国民」についてお話します。
➃国民であること
ⅰ)アイデンティティとしての国民
現在の国民国家で最も問われているのは「国民であること」です。
生まれつき、日本人である人はいません。
日本人であるかどうかなど、法律が決める、ただのレッテルにすぎません。
でも、、、
日本人の父と台湾人の母をもつ少女が、自分は結局何人なのか、思い悩んでいたのを、私は知っています。
「金(キム)」という名字をもつ少女を「金(キン)」と呼んで傷つけてしまった経験が、私にはあります。
「自分が何国人であるか」は、現代人のアイデンティティを根強く、そして根深く縛っているようです。
ⅱ)特権としての国民
だからでしょうか、「国民であること」は特権化しがちです。
日本で暮らしているのは日本人だけではありません。
多くの外国人も暮らしています。
少子高齢化によって人口が減っていく日本では、社会を支える働き手としても、同じ国に暮らす仲間としても、在留外国人はとても大切なはずです。
にもかかわらず、外国人をどう受け入れるか、十分に議論が進んでいるとはいえません。
劣悪な労働環境、不法滞在者の処遇など、多くの問題が解決されないままです。
そこには、ごまかしようのない外国人差別があります。
日本の法律では、日本で生まれ育ち、日本語しかしゃべれなくても、両親が外国人の子供は外国人のままです。
それがいわれのない差別を生み出すのは、特別永住者、いわゆる「在日」と呼ばれる人たちに対する一部の日本人の態度を見ても明らかです。
もし、「日本人であること」は偉い、と思っているとしたら、大きな勘違いです。
しかも、その最も面倒くさいところは、そう思っている本人がそれを「愛国心」だと思い込んでいることです。
ⅲ)移民
このような自民族中心主義、エスノセントリズム(ethnocentrism)は、日本だけの問題ではありません。
むしろ、移民政策をとってきた国々でこそ、グローバリゼーションの反動として起こっています。
ただ、そうした国の状況はもっと複雑です。
そもそもが移民の国であるアメリカで、移民の排斥を声高に主張する大統領が誕生しました。
が、その一方で、一部の不法移民は合法化されています。
そうした移民なしでは、アメリカ社会が成り立たないからです。
これまで移民に寛容であったEU。
近年、移民や難民が大量に流入したせいで社会的な不安が高まり、移民の受け入れが規制されるようになりました。
移民たちが自分たちの生活を脅かしている、と主張する政治家や政党が大きな勢力になりつつあります。
フランスでも、現在、不法移民や難民は厳しく排斥されています。
が、その一方で、サッカーの代表選手の顔ぶれには移民出身者が並んでいます。
そこには、もとからの国民も、国籍を取得した移民も、在留を許可されただけの移民も、それすら許されなかった不法移民もいます。
隣人として移民を受け入れながら、他者として移民を排斥する――こうした複雑な状況が欧米では起こっています。
が、それが人権を蔑ろにし差別を助長しているのなら、「国家」のあり方自体を問い直す必要があります。
ⅳ)国籍
ところで、、、
ラグビー日本代表に多くの外国人が含まれていることは知っていますか。
ラグビーでは、国の代表として、国籍が絶対条件ではなくなっています。
現在、日本では、約30組に1組が国際結婚だそうです。
その子供をハーフと呼ぶのか、ダブルと呼ぶのか、それともミックスと呼ぶのか。
そういえば、活躍するスポーツ選手にそうしたルーツの人が増えていますね。
だんだん、世の中は、国籍にこだわらない方向に向かっているのかもしれません。
が、「無国籍」は根本的に違います。
無国籍とは、どの国家にも属さず、どの国家からも保護されない、ということです。
無国籍のために空港外へ出られず、18年間空港内で暮らした男性の実例もあります。
日本では、家庭内暴力、DV(domestic violence)から逃れるために、女性が子供の出生を届けないケースもあります。
行政が把握するかぎり救済措置はあるようですが、本来日本人であるはずなのに、親の事情で、国家からの正式なサービスも保護も受けられないのは、子供の人権を踏みにじる事態でしょう。
人間であることと国籍は関係ありません。
が、現実問題として、日本を見ても、世界に目を移しても、人権と国籍とは深く結びついているようです。
これからの「国民」のあり方を問うことは、社会を運営する人口が減っている日本では、喫緊の問題だといえます。
外国人や移民、無国籍について考えることは、その大きなヒントになるはずです。
1-2-11ex「国家」
「国家」の延長戦として、「民族」についてお話します。
⑤民族
ⅰ)エスニシティ
「民族」というのは、〈言語や文化を共有する社会集団〉です。
それを、「エスニシティ(ethnicity)」とか「エスニック集団(ethnic group)」と呼びます。
言語や文化の本質は雑種性です。
ということは、言語や文化を共有する民族も、本来、雑種です。
人々はかかわりあい混じりあい、常に変化しながら、暮らしています。
そのなかで、言葉や暮らし方が自然に共有されるようになる。
そもそも民族は、そうした緩やかな生活集団にすぎません。
たとえば「ゲルマン民族」。
世界史に出てきますよね。
彼らは、歴史上、大小の国々を作りましたが、それは、ゲルマン民族と呼ばれた一派が支配者として国家をなしたという意味にすぎません。
そこには、さまざまな言語や文化をもったさまざまな民族が暮らしていました。
が、他の民族に求められたのは、ゲルマン人の支配に従うことであって、同化することではありませんでした。
一方、ゲルマン民族と呼ばれた人たちもまた、そう総称されただけで、「俺はゲルマン民族の一員だ」と自覚していたとはかぎりません。
ⅱ)ネーション
近代になると、民族は、一つの言語、一つの文化を共有するものだと考えられるようになりました。
それが「ネーション(nation)」です。
近代国家が、さまざまなエスニシティを「国民(nation)」として同化していくなかで、ネーションは誕生します。
その意味で、ネーションは、近代国家形成の過程で政治的、人為的に生み出された、特殊なエスニシティといえます。
言語や文化が本来もつ雑種性を考えれば、「一つの言語、一つの文化を共有する、一つの民族」など、もとより幻想にすぎません。
「国民」=「民族」とは、いわばそうした幻想を共有する人たちです。
その幻想は、幻想だからこそ、より人々の心に働き掛け、精神的なつながりを強固なものにします。
「俺たちは同じ仲間なんだ」という同胞意識、「俺はこの国の一員なんだ」という強い帰属意識をもつようになりました。
国民国家が「想像の共同体」といわれる所以です。
そして、その幻想は、幻想だからこそ、現実の雑種性を無視して、「一つの民族」という純粋な存在を作り出しさえします。
第二次世界大戦で、ナチスドイツは、ゲルマン民族の優位性を説いて、人種的純化を図りました。
ホロコーストの大義名分となったのは、ネーションとなった「ゲルマン民族」です。
世界中で繰り返されるヘイトスピーチもまた、同じような幻想に取り憑かれた人たちのなせる業でしょう。
そういえば、《切り離し》は近代の特徴でした。
他から切り離された一つの民族――ネーションが近代的な概念だということがよくわかるはずです。
ⅲ)民族としてのデフォルト
このように、ネーションは、近代における特殊で特異なエスニシティにすぎないのですが、近代に生きる私たちにとって、ネーションこそが普通の「民族」です。
たとえば、、、
アイヌ人やユダヤ人が、以前から、独自の生活様式をもった民族であったことはたしかです。
が、彼らは、日本やヨーロッパの近代国家形成の過程において、「国民」として同化し
きらず、逆に、「自分たちは一つの民族だ」という意識を明確にもつようになりました。
エスニシティが少数民族としてネーション化したわけです。
アジアやアフリカでは、植民地から独立し近代国家を形成する過程で、「民族」が誕生していきます。
たとえば、ベルギーの植民地であったルワンダ。
もともと共存していたツチ族とフツ族が分割統治政策によって対立し、互いを違う民族だと意識するようになりました。
その結果が、100万人にも及ぶといわれる虐殺。
1994年のことです。
部族や階級のような区別がネーション化した例といえます。
そういえば、アメリカは多民族国家である、といわれますよね。
が、アメリカは国民国家ですから、ネーションとしては、「アメリカ人」という単一の国民=民族から成り立っています。
一方、その国民は、イタリア系、ロシア系、ユダヤ系など、さまざまな風習や伝統をもった人たちから成り立っています。
つまり、多様なのは、エスニシティとしての民族なのです。
といっているエスニシティが、イタリア、ロシア、ユダヤと、すでに国家単位、ネーション単位で語られていることに気づきますか。
私たちが「民族」を語るとき、ネーションから逃れることはむずかしいのです。
実は、「民族」問題を一番ややこしくしているのが、この「民族」という日本語です。
ここまで見てきたように、「民族」には「エスニシティ」と「ネーション」という2つの契機が複雑に絡んでいるのですが、日本語では、それが同じ「民族」という言葉で語られてしまいます。
日本語では、特に政治的な分野で、その区別がないまま、あるいはわざと区別せずに議論されることが多々あることを知っておきましょう。
ⅳ)民族という呪い
民族が大きな問題として浮上してくるのは、1990年代以降です。
世界を二分していた米ソの冷戦が終結して、それまで抑え込まれていた民族間のいざこざが表立ってきたのです。
これまで見てきたように、近代の国家形成が「民族」を生み出していきました。
そして今度は、自分たちを「一つの民族」だと思うようになった人たちが、「民族自決」を盾に、新たな国家を作ろうとする――それが民族紛争を引き起こしています。
たとえば、A国の少数民族であるB民族が独立してB国を作ったとします。
しかし、B国の中には少なからずA民族も住んでいるはずです。
B国内のA民族は、B国を分割して、A国に併合されることを望むかもしれません。
また、B国内には、さらなる少数民族のC民族も住んでいるかもしれない。
B国は、かつての自分たちと同じ境遇に置かれているC民族の独立を認めるのでしょうか。
人々が暮らしていくために、言語や文化を共有した社会や仲間が必要です。
それは本来、生きていくために自然に生まれた、緩やかな集団にすぎません。
そうしたエスニシティがネーションへと変質していくのが、近代です。
近代国家が「国民」として人々を同化しようとした結果、ネーションという「一つの民族」が生まれます。
民族の雑種性を考えると、この「一つの民族」というのはただの幻想にすぎません。
が、幻想であるがゆえに、私たちの心を支え、そして縛っていきます。
泥沼の民族紛争が起こるのも、ネット上にヘイトスピーチが飛び交うのも、この「一つの民族」という呪いに囚われているからでしょう。
私たちのアイデンティティにとって、「日本人である」ことは大切です。
でも、その日本人には、さまざまな考え方をもつ、さまざまな人たちがいるのを、私たちは知っています。
「日本人」もまた雑種なのです。
それに気づくとき、ナショナリズムとは、自分や家族、仲間たちが暮らす日本を愛し大事にすることであっても、自分の「正しい」と考える日本人のあり方を押し付けることではないとわかるはずです。
「日本人」が雑種なら、他の民族も雑種です。
そう気づくことができたなら、「一つの民族」同士が争うようなことはなくなるのかもしれません。
大前 誠司 編著
1,430円・四六判・328ページ