評論文読解のキーワード「自分」
1-2-7a「自分」
ここでは、「自分」についてお話します。
まず、「自分」とは何か、を考えます。
①自分とは何か
ⅰ)私は他者である
アリバイっていう言葉、知ってますよね?
かっこよく訳すと、犯罪現場不存在証明というのですが、簡単にいうと、犯罪の時間に別の場所にいたことを証明することです。
でも、それは、自分でいくら言ってもダメです。
証拠や証人が要ります。
自分のことを明らかにするためには、自分以外の存在=他者が必要なわけです。
「自分とは何か」という問いに対しても、同じです。
たとえば、「私は~である」と言おうとすると、、、
「私は高校生である」
「私は18歳である」
高校生は自分の身分、18歳は自分の年齢。
そこに入るのは、「自分の~」であって、自分自身ではありません。
「私は私である」
と言えなくはないですが、それって意味をなしてますかね?
私が私であるためには、他者が必要なのです。
あえて逆説的にいうと、「私は他者である」といえます。
「アイデンティティ」とは〈自分を実感するということ〉です。
ただ、「これが自分だ」と思えるためには、それを実感させてくれる「たしかな他者」こそ必要なのです。
ⅱ)可塑的な自分
私たちは、まず「自分」という根本的なものがあって、それにさまざまな他者、高校生という身分や、18歳という年齢がかかわっていると思っていますよね?
じゃあ、、、
「自分」から、身分、年齢、名前、家族、友人など、どんどん剥ぎ取ってみましょう。
最後に残るのが《本当の自分》ですか?
いやむしろ、そうやって剥ぎ取っていったさまざまな他者こそが「自分」を成り立たせていることがわかります。
自分は決して固定的なものではありません。
道を歩いている時の自分、風呂に入っている時の自分、同じだと感じますか?
同じはずがありません。
それは、その時その時の他者とのかかわり が違うからです。
自分は刻一刻と変化しています。
私たちは、常に変化し続けている可塑的な存在なのです。
わかりにくいかもしれませんが、、、
「自分」がいて「他者」がいて、それらがかかわっているのではなく、「他者」とのかかわり のなかで「自分」が生まれ続けているのです。
ⅲ)「私」という分節
では、なぜ私たちは、一つの「自分」があるように思うのでしょうか。
それは、常に変化し続けている、さまざまな「自分」を、同じ「自分」という言葉で分節しているからです。
それほど難しい話ではありません。
たとえば、君たちはいろいろな「ペン」をもっていますよね。
1本1本は違うはずですが、「ペン」と呼んでとらえた途端、その区別はなくなってしまいます。
同じことが「自分」にもいえます。
他者とのかかわりのなかで「自分」は刻一刻と変化しています。
が、それを「自分」という一つの言葉でとらえた結果、そこに一つの「自分」が誕生します。
こうした本来可塑的な自己のあり方を一つの「自分」としてとらえることを「自己同一性」、つまりアイデンティティというわけです。
1-2-7b「自分」
「自分」の第2弾は、「アイデンティティ」について考えます。
②アイデンティティ
ⅰ)アイデンティティの危機
現代人の不幸は、自分を見失っていることだと言われます。
なぜそんなことが起こるのでしょうか。
一言でいえば、「個」という意識の肥大化のせいです。
私たちは、自らを「個人」だと考え、他の人との違いに「自分らしさ」を求めます。
が、「自分」とは「他者」とのかかわりのなかでこそ実感されるものでした。
現代人は、「自分らしさ」を求めて、自らを他者から切り離し、逆に「自分」を見失ってしまう、という大きな矛盾を抱えているのです。
これを「アイデンティティの危機」といいます。
そこで、、、
《自分探し》をする人がいます。
が、その人が探し出すのは、「本当の自分」ではなく、自分が打ち込める何かであったり、大切に思える人であったり、、、結局、深くかかわれる「他者」です。
私たちが、「自分」を実感するためには、そうした「他者」とのたしかなかかわりが必要なのです。
ⅱ)自己同一性
「アイデンティティ」とは〈自分を実感すること〉です。
一般的に「自己同一性」と訳されます。
変化し続ける自己を一つの「自分」として実感するということです。
が、そのためには、他者とのたしかなかかわりを必要とします。
つまり、、、
他者とのたしかなかかわりをもつことで、私たちは、「これが自分だ」というたしかな自己像が結べるわけです。
ⅲ)アイデンティティをどう訳すか
さて、「アイデンティティ」の訳にはさまざまなものがあります。
たとえば、「自分らしさ」。
アイデンティティの言い換えとしてうまく使えることが多い訳ですが、一つ大きな問題を抱えています。
これが、《個人》から見た訳だということです。
先に述べたように、他から切り離された存在として自分をとらえることで、私たちは「アイデンティティの危機」に陥ります。
アイデンティティを「自分らしさ」と考える思考こそが、アイデンティティを危機に陥らせるわけです。
「個性」という訳も、同じ問題を抱えています。
だから、もっと《社会》的な側面を視野に入れた訳を考える必要があります。
たとえば、「生きがい」とか、「自分の居場所」とか、、、
その中でも最も大切な訳が「帰属意識」です。
ある社会に属しているという意識。
実は、この意識が私たちの「自分」を支えています。
先に上げた「私は高校生である」という例ですが、、、
正確に言い直せば、「私は高校生の一員 である」です。
私は「高校生」と社会が見なすグループの一員であるという意味です。
この帰属意識こそ、他者とのかかわりの実態です。
実は、「自分らしさ」や「個性」も帰属意識に支えられています。
たとえば、個性的であろうとして、真っ裸で街を歩く人はいません。
「変態」と言われるかもしれませんが、個性的だとは言われない。
個性的であるためには、社会が個性的だと見なすグループの一員でなければならないからです。
「自分らしさ」も同じです。
社会が見なす「自分らしさ」の一員でなければならない。
アイデンティティの根底には、常に帰属意識があります。
それは、他者とのかかわりのなかでしか自分が成り立たないからです。
ⅳ)たしかさを求めて
自分を見失いがちな現代において、ナショナリズムが強まるのにはこうした背景があります。
現代は、これまで以上に「不確かな」時代です。
戦後の日本、特に男性にとって、会社は一生を捧げるような「たしかな」存在だったかもしれません。
しかし、今は多くの企業が倒産したり、身売りしたり、働く側も簡単に転職したり、リストラされたりします。
近年、日本では、結婚が約60万組、離婚が約20万組で推移しています。
単純に3組に1組が離婚、という計算にはなりませんが、家族が「たしかさ」を失っていることはたしかでしょう。
そうしたなかで、決してなくなりそうにない「たしかさ」を国家に感じる人は多いようです。
これだけ無宗教だといわれる日本で、しかも、昨今宗教団体の内実が暴かれているにもかかわらず、神にのめり込む人が相当数いるのも、同じ理由でしょう。
この「不確かな」時代に、私たちは、自分を支えてくれる「たしかな」他者を求めてさまよっているのかもしれません。
大前 誠司 編著
1,430円・四六判・328ページ