評論文読解のキーワード「メディア」
1-2-16a「メディア」
ここでは、「メディア」についてお話します。
まずは、「マスメディア」を中心に考えましょう。
①メディア
「メディア(media)」というのはmediumの複数形で、何かと何かの中間にあるもの、何かと何かをつなぐものです。
だから、〈媒介するもの。手段〉と訳されます。
たとえば、「言語」は、人間が世界を認識する根本的な手段です。
人間と世界を媒介するものです。
だから、言語はメディアだといえます。
それを、「言語」の項ではメガネにたとえました。
しかし、最近では、マスメディアとかインターネットメディアとかいわれるものを総称して、単に「メディア」と呼ぶことが多いようです。
この場合は、人と情報をつなぐものを広く指しています。
②マスメディア
「マスメディア」は、〈大勢の人に情報をつなぐもの〉です。
〈大勢の人に情報を伝達すること〉を「マスコミュニケーション」、略して「マスコミ」といいますが、その手段がマスメディアです。
この2語を厳密に分けて考える必要はないでしょう。
ⅰ)国民国家の装置
近代国家にとって、マスメディアは非常に重要な役割をもっています。
国民国家の強みは、「この国は俺たちの国だ!」と国民が仲間意識をもっていること。
近代化したばかりの日本が日清戦争や日露戦争に曲がりなりにも勝てたのは、そのおかげだという人もいるくらいです。
当時の中国やロシアの兵士は、ただの徴用された被支配民にすぎませんでした。
それに対して、日本の兵士は、国民として「俺たちの国を守れ。家族を守れ。」と懸命に戦ったというのです。
でも、こうした意識をもつためには、今国がどういう状況になっているか、という情報共有が欠かせません。
マスメディアは、国民に必要な情報を知らしめることで、国家が一丸となって動くことを可能にしました。
もちろん、その力は、時として、国家権力に悪用されました。
第二次世界大戦の日本で、新聞やラジオが国家権力に都合のいい情報ばかりを流し、国民を戦争に駆り立てた歴史は消せません。
マスメディアは、国民を動かす力をもっているのです。
立法、行政、司法という三権に次ぐ第4の権力と目されることすらあります。
だからこそ、戦時中の反省を込めて、マスメディアは、国家権力の監視者であるべきだとも考えられています。
ⅱ)メディア・リテラシー
もちろん、マスメディアの流す情報が正しいとはかぎりません。
これまで何度も誤報がありました。
時の権力者におもねるマスメディアもあれば、必要以上に批判的なマスメディアもあります。
しかし、わからなければならないのは、必ず情報にはバイアスがかかっているということです。
しばしばマスメディアは「中立公正」でなければならないといわれますが、そんな情報はありません。
誰が見ているかによって、どこから見ているかによって、物事は違って見えます。
だから、大事なのは、発信者の立場を明確にすることであって、「公正中立」のふりをすることではありません。
Ⅲ)マスメディアの「正しさ」
そうした基本的なことが抜け落ちて、大上段から「正しさ」が振りかざされることが多いのもたしかです。
たとえば、コロナ禍の最中、厚生労働省のHPには「屋外など、適度な距離を保てる状況ではマスクは要らない」とずっと書かれていました。
にもかかわらず、テレビは「外出時には必ずマスクを」と言い続けていました。
いや正確には、一部の番組で、特にコロナ禍初期の番組で、屋外では原則マスクが必要ないことは指摘されていました。
が、それを指摘する番組や専門家は次第に淘汰され、姿を消します。
「マスク警察」は、マスメディアの偏った報道のせいでもあります。
政府からの「要請」がいつのまにか事実上「強制」になっていたのも、いわゆる同調圧力だけではなく、マスメディアの力が大きく影響したはずです。
ⅳ)知る権利
私たちは、民主主義社会に暮らしています。
さまざまな意見や考え方があるなかで、自分たち自身がよりよいものを選んでいかなければなりません。
ここで大切なことは、さまざまな意見や考え方があることです。
だからこそ、民主主義は多数決を採用しています。
多数者の意見が正しいのではなく、さまざまな意見があるから、しかたなく、多数が賛成しているということを根拠に、とりあえず納得をしてもらおうとしているのです。
だから、さまざまな意見があることを国民が知ること、それを議論する場があること、そのための良質で十分な情報が与えられること、、、
いわゆる「知る権利」を保障する装置として、マスメディアの使命は重大です。
どんなにインターネットメディアに押されていようが、第1の情報源として、いまだにマスメディアは頼りにされています。
だからこそ、情報には必ずバイアスがかかっていることをわかった上で、マスメディアをうまく使っていけるようにしたいものです。
1-2-16b「メディア」
「メディア」の第2弾は、「インターネット」によって社会がどう変わったか、考えます。
③インターネットメディア
ⅰ)多対多のメディア
インターネットが普及した現在、メディアの中心はマスメディアからインターネットメディアに移りつつあるといわれます。
マスメディアが、特定のテレビ局や新聞社から不特定多数の人間へ、という一対多の情報発信をしていたのに対して、インターネットメディアは、不特定多数から不特定多数へ、と多対多の双方向的な情報発信がされるようになりました。
ⅱ)弱者の声
インターネットメディアの特徴の一つが、誰でも発信できることです。
インターネットが始まった20世紀末、インターネットはさまざまな人たちがさまざま意見を言える場なのだから、情報は多様化し選択は増え、より自由で開かれた社会が生まれるにちがいない、と考えられていました。
民主主義にとって、さまざまな意見があることは生命線です。
インターネットは、その意味で、民主主義を支えるメディアとして登場したのです。
だから、、、
携帯電話を通じて戦場から届く映像が、戦争の実態を教えてくれるようになりました。
権力や企業が隠してきた不正や巨悪が暴かれるようになりました。
これまでは無視されてきた弱者の悲痛な声が届くようにもなりました。
これらの情報が人々の意識を変え、社会を動かしたことはたしかでしょう。
ⅲ)拡張された日常
が、それ以上に、ソーシャルメディアは私たちの日常を変えました。
ソーシャルメディアとは、個人による情報発信、情報交換を基本とするインターネットメディアの一種です。
だから、、、
日記代わりのブログに、食事の写真を上げる人がいます。
投稿サイトで、ゲーム配信をする人もいます。
身内受けを狙っただけの投稿動画がバズって、世界中で人気者、なんてことも起こります。
逆に、チャットで何気なくつぶやいた言葉が炎上することさえあるかもしれません。
が、問題はもっと身近にあります。
たとえば、家族と食事をしている時に、スマホに友達からメッセージが入り、やりとりすること、ありませんか。
このとき、君は、異なる次元の、2つの社会関係のなかに同時に存在しています。
目の前にいる家族との関係の場と、目の前にいない友達との関係の場。
テレビを見て、とか、小説を読んで、とか、日常にいながら、日常とは違う世界を味わうことがあったかもしれませんが、この場合は、両方ともその人の日常です。
異なる2つの関係の場が交錯しながら、私たちを包含しています。
そこには、これまでと違った、いわば拡張された日常があります。
しかし、目の前にいる人そっちのけでSNSに夢中になるのは、さすがに顰蹙でしょう。
逆に、目の前のことが忙しすぎて、メッセージを見損なったり返信し忘れたりすると友達をなくすかもしれません。
私たちは、まだまだ、、拡張された日常との付き合い方がうまくないようです。
電車内での会話はOKなのに、電話はマナー違反だと非難されるのも、こうした二重性に違和感を感じる人が多いせいでしょう。
ⅳ)平等性の善悪
このように、インターネットメディアは、私たちの日常を、そして、その可能性を広げてくれます。
が、誰でも発信できるということは、もちろん、よいことばかりではありません。
誰がどのような立場で語っているかもわからない情報が垂れ流されています。
ただの噂や憶測がさも事実であるかのように飛び交います。
誰かを貶めるために、悪意をもって流される情報もあります。
そのような怪しい情報にもとづいて、何も悪くない人に、心ない言葉を無遠慮にぶつける人がたくさんいます。
これは、実は、誰でも発信できるから、つまり平等だから起こっていることです。
「悪いことはしたら怒られる」と思うと、人は「悪いこと」をしにくいものです。
平等だということは、「怒ってくれる」、上の立場の存在がいないわけです。
既存の法律で取り締まれるものもあるので、正確にいえば、「怒る」存在がいるにはいますが、匿名性が高いために、誰がやっているか、見つかりにくい。
では、徹底的に取り締まれるようにすべきか、というと、それも簡単にyesとは言いにくいでしょう。
というのは、こうした平等性こそネット社会の最大のメリットだからです。
言論の自由は民主主義の根幹でもあります。
ⅴ)分断のメディア
もう一つ。
情報を選り好みできることも、インターネットメディアの特徴です。
自分の見たくない、聞きたくない話は無視できるわけです。
マスコミを「マスゴミ」と呼んで相手にしない人たちが少なからずいます。
それは、自分の望んでいない情報を聞かされてしまう、あるいは、逆に、自分の望んでいる情報をちゃんと流してくれないからです。
ところが、ネットでは、自分にとって都合のいい情報、快い情報ばかりを選ぶことができます。
ネット上のコメント欄が賛成ばかり、反対ばかりに偏ってしまうのは、同じ意見をもつ人たちだけが集まってくるからです。
SNSでは、同じ思いをもつ同志が自分たちの意見の「正しさ」を確認しあっています。
インターネットは、より多様で自由な社会をもたらす、と期待されましたが、現実には、「社会の分断化」を促す側面もあるわけです。
ⅵ)メディアの暴力性
テレビに出て有名になることはいいことばかりではありません。
特に事件に巻き込まれたりすると、被害者なのに、私生活まで晒されてよけいに傷ついてしまうことすらあります。
こうしたマスメディアの暴力性は、以前から問題視されていました。
が、インターネットメディアによって、その暴力性はより過酷になったようです。
ネット上に、根拠のないうわさ話や作り話が行き交い拡散されて、それを信じた人が正義漢面して心ない言葉をぶつけたりします。
それもこれも、匿名性が高いために、無責任に発言できるからです。
その意味で、陰湿さが増した、ともいえます。
が、インターネットは情報を選り好みできるはずです。
見たくなかったら見なければいい。
とならないのは、もうすでにネットが私たちの拡張された日常の一部だからです。
SNSのグループを「コミュニティ」と呼ぶのは偶然ではないでしょう。
「コミュニティ」とは、その人が帰属する社会。
その人のアイデンティティを支える、大切な仲間です。
イヤだと思っても、「コミュニティ」からなかなか抜け出せないのは、現代人も前近代の人たちと変わらないようです。
それをネット依存症として病気扱いすることもできますが、もしそうなら、現代人のほとんどがその病気から抜け出せなくなっているのではないでしょうか。
ⅶ)ノイジーマイノリティ
現代社会が、これほどの量の情報とどううまくつきあうか、まだとまどっているのはたしかでしょう。
弱者の声を聞くことはいいことです。
が、ほんの一部の声で、これまでの暮らしが壊されてしまうということが起こっています。
たとえば、大晦日の除夜の鐘が、移り住んできた一部の住民の苦情で中止になったりします。
子供の遊び場である公園が、子供の声がうるさいという1件の苦情で廃止されたりします。
大きな声を出したもん勝ちになるのは、それに過剰に反応してしまう社会があるからです。
私たちの日常が拡張された日常ならば、私たちは、拡張された社会、拡張された現実を生きています。
それは、インターネットメディアがもたらした社会です。
そこには、メリットもデメリットもあります。
それとどう向き合っていくか、どう折り合っていくか。
これまで培ってきた人間のマナーとか道徳とかをもちだすのは簡単ですが、それではきっとコントロールしきれません。
現在は、その向き合い方、折り合い方を模索し、試行錯誤している過渡期なのでしょう。
大前 誠司 編著
1,430円・四六判・328ページ