評論文読解のキーワード「知」
1-2-3「知」
ここでは、いつのまにか「知」を侵食してしまう「思い込み」についてお話します。
①常識
私は、よく「常識がない」といわれます。
世の中の普通の人ならもっているはずの知識やマナーが足りない、という非難でしょう。
たしかに、この場合「常識」はもっていた方が暮らしやすそうです。
が、「常識」であるがゆえに、いや「常識」だと思い込むあまり、論理的でないことを平気でやってしまうことがしばしばあります。
ⅰ)Omae, Seiji派? Seiji Omae派?
たとえば、、、
あなたは、英語で自分の名前をどう言いますか。
私は「大前誠司」という名前なので、もちろん”Omae, Seiji”と言います。
が、名字と名を逆にして、”Seiji Omae”と言う人もいるでしょう。
英語では、名が先で、名字は後に言うのだから。
ところで、あなたはどっち派ですか。
Omae, Seiji派? Seiji Omae派?
それを確認した上で、次に、”George Washington”を日本語にしてみてください。
もちろんSeiji Omae派の人は、「ワシントン・ジョージ」と訳しましたよね。
だって、日本語では、名字が先で、名は後に言うのですから。
ⅱ)長崎? 渋谷?
そもそも、英語では、名が先だというのも思い込みです。
公的な場では、名字を先に言います。
1980年代に渋谷にできたアメリカのレコード店では、当初、マイケル・ジャクソンがJackson,Michael、つまり「J」の棚に並べられていました。それがアメリカの「常識」だったからです。
しばらくすると、マイケル・ジャクソンは「M」の棚に移りました。
英語では、名が先で名字が後、という日本の「常識」に従ったのでしょうね。
ⅲ)ファミリーネーム
実は、世界の人たちがみな名字をもっているというのも思い込みです。
日本でみんなが名字をもつようになったのは、明治になってからなのは知っていますよね?
現在も、アラブ人の名前は、自分の名・父の名・祖父の名という順番でできていて、名字がありません。
自分の名前をどう名乗ろうとその人の勝手だと思います。
ただ、少なくともGeorge Washingtonをジョージ・ワシントンと訳したいなら、Omae, Seiji派でなければ論理的に破綻していることだけは指摘しておきましょう。
ⅳ)常識=思い込み
「知」とは、かっこよくいえば、〈世界のあり方を知ること〉です。
しかし、そうした「知」はいつしか錆びつきます。
錆びついたまま、「正しい」ものとして人々が受け入れてしまう。
そうした「思い込み」を「常識」と呼んで、他の人たちに押し付けるのはまちがっています。
Covid-19(新型コロナ)で日本が大騒ぎになっていたとき、洗面所にアルコール消毒のスプレーを置いている飲食店がありました。
アルコール消毒は、水で手洗いできない場合の次善の策として推奨されていたものです。
なぜ、手洗いできるところに、アルコールが置かれていたのでしょう?
アルコール消毒しすぎると、手が荒れて、感染症を起こしやすくなる、との医学的な指摘も散々されていました。
にもかかわらず、アルコール消毒はかなり強制されていましたよね。
何が人の目を曇らせるのでしょう。
私がこうした惨状を指摘すると、「常識だろ」という目でにらまれました。
ⅴ)それはあなたの感想です!
いかなる知も一面的なものです。
どんなに「正しい」と思えても、それが自分の立場から見ての「正しさ」であることを忘れてはなりません。
いわば、常に「あなたの感想」でしかないのです。
だから、私たちは、「正しさ」や「常識」を疑わなければならない。
常にアップデートしていかなければならない。
それは、自分にとっての「正しさ」や「常識」も、です。
しかし、それは簡単なことではありません。
私たちはさまざまな常識に支えられて暮らしています。
ましてや、現代は、膨大な情報があふれ、AIの発達は「現実」すら揺るがせています。
そのなかで、私たちはどう振る舞うべきなのか。
その答を他人から与えられては、結局、周りが「正しい」と言っている「常識」に頼っているだけです。
現代ほど、自分で考えることが求められている、主体性が求められている時代はないといえるでしょう。
大前 誠司 編著
1,430円・四六判・328ページ