【評論文読解のキーワード】現代
1-1-4 現代
ここでは、「現代」についてお話をします。
「現代」が「近代」の延長上にある以上、「現代」は「近代」のいいところも悪いところももっています。
——まず、《個》と《世界》について考えましょう。
アイデンティティの危機
家族や仲間も大切だけど、、、
でも、一番大事なのは自分自身。
というのが、「個人」という意識です。
近代の《豊かさ》のなかで生まれました。
より豊かで便利になった現代では、そうした「個」の意識が自然とより前に出るようになります。
携帯電話がなかった時代、人とどこかで待ち合わせするのに時間厳守は原則でした。
ドタキャンなどもってのほかです。
でも、今や、多少の遅れは気になりません。
ドタキャンはさすがに顰蹙ですが、でも、できないわけではありません。
だって、簡単に連絡取れるのですから。
ここでは、友だちよりも自分の都合が優先しているのですが、それすらあまり意識されません。
不幸なことに、、、
私たちは、《自分》を実感するために、たしかな他者を必要とします。
だから、「個」という意識が肥大化して、他者との関わりが希薄になると、《自分》を見失います。
そうした状況を「アイデンティティの危機」と呼びます。
が、これはそれほど特別なものではありません。
自分がやりたいこと、行きたい大学が明確な人はいいでしょう。
しかし、みんながみんな、そうではないはずです。
では、どうやって自分の将来の方向性を決めますか。
周りの意見をとりあえず聞いてみて、、、
でも、なかなかこれだというものがなくて、、、
時間切れ的に、学校の先生から勧められたところを第一志望にしてみたけど、、、
なんて人はけっこういるでしょう。
この状況、ある意味で《自分》を見失っていませんか。
自分の将来のことだから、自分で決めなければならないと私たちは考えてしまいます。
周りの意見はあくまでも参考で、、、
と思うからこそ、決めきれない。
「アイデンティティの危機」などと大げさに言われますが、こういうグズグズな状況は、「自分で」と思い込んでいる現代人にはよくあることではないでしょうか。
「個人」として、《自分》を大切にしようとするあまり、他者とのかかわりが希薄になり、《自分》を見失う、、、
現代人は、根本的な矛盾を抱え込んでいるようです。
マイノリティとしての私
「#Me Too」運動を知っていますか?
17年、アメリカで「私も性的虐待の被害者だ」という声を多くの女性が上げました。
19年には、日本でも、職場における性差別を告発するものとして「#KuToo」運動が起こりました。
こうした動きを他人事(ひとごと)だと思うのはまちがいです。
たとえば、周りのみんなが面白いと言っているけど、そのアニメ、全然面白くないよな、と自分一人だけが思っていること、ないですか。
それを口に出すかどうかは別として、その気持ち自体は大事にしたいですよね。
だって、それこそが《自分らしさ》ですもの。
ということは、私たちは、何らかの意味で、必ずマイノリティだし、マイノリティであるべきだ、ということです。
どんなに「個人」という意識が肥大化しようが、誰かの支えなしで生きていくことはできません。
周りに合わせることは大切です。
でも、やっぱり、《自分》を大切にしたい。
と思うなら、他の人の《自分》を大切にしなければ、自分の《自分》も大切にしてもらえないはずです。
民主主義は、多数決原理を採用しています。
それは、マジョリティが「正しい」からではありません。
さまざまな人たちがさまざまな意見をもち、そのどれが「正しい」か一義的に決められないので、しかたなしに多数決で決めるのです。
民主主義は、自分と違う意見の存在を前提としています。
が、ネットには、それを「偏向」とか「反日」といって批判する人がいます。
そう批判することもまた自由ではありますが、もしそれが自分をマジョリティだと思い込んで、マイノリティを抹殺しようとしているのなら、少なくとも民主的とはいえません。
社会的な少数者=マイノリティが声を上げられる社会こそ、健全な社会といえるでしょう。
その声にマジョリティが耳を傾ける社会こそ、健全な社会といえるでしょう。
ジェンダーギャップ指数って、知っていますか?
世界経済フォーラムが毎年発表している男女格差の国別ランキングです。
23年、日本は過去最低の146カ国中125位でした。
男女格差だけではありません。
日本がかなり差別的な社会であるという自覚、ありますか。
もしないなら、無自覚に差別「する」側に加担していることになります。
ということは、君自身もまた差別「される」可能性がある覚悟、もっていますよね?
世界の一員
近代は、豊かになっていくなかで、「家」や「村」よりも大きな政治的、経済的な社会単位が必要になってきました。それが「国家」です。
が、より《豊かさ》が進んだ現代は、「国家」よりもさらに大きな政治的、経済的な単位が必要となりつつあります。それが「世界」です。
グローバリゼーションによって、世界は一つになろうとしています。
身近にあるものを見てみましょう。
中国産、とか、ベトナム製、とか、、、
今私が使っているパソコンやタブレットは、アメリカの企業が設計したものを、日本をはじめとするさまざまな国の部品を使って、最終的に中国で組み立てられています。
スマホでやっているゲームは、運営会社やサーバーが海外にあるだけでなく、対戦している相手も日本にいるとはかぎりません。
人やものがやすやすと「国家」を越えてくるのです。
インターネットも、世界を一つにしています。
まだ言語の壁がありますが、それも近い将来、技術の進歩で解消するでしょう。
SNSなどのソーシャルメディアは、国境を越え、いや、空間的な意味だけでなく、年齢や性別、社会的な立場すら越えて、《世界》をつなげていきます。
もちろん、そうしたメディアが、逆に社会の分断を促進しているという側面も指摘されています。
が、もはや、こうした世界の一体化は避けられない流れでしょう。
まだまだ国民国家という近代的な枠組みは健在です。
だから、私たちは、どこかの国の「国民」です。
が、そうであるとともに、「世界」の一員でもあります。
しかも、それを私たち自身が実感しています。
現代は、世界のどこかで起こっている戦争も、自然環境問題も、他人事ではなく、自分事として向かい合っていかなければならなくなった時代だといえるでしょう。
現代人は、《個》という極小と《世界》という極大を生きる存在となったのです。
——次に、《人間》と《現実》についてお話します。
《人間》であること
今見ている携帯電話やタブレットも、学校への行き帰りに使う電車も、科学技術の産物です。
私たちの生活が科学技術によって支えられていることは否定しようがありません。
しかし、科学が発達すればするほど、人間の生活は豊かで便利になっていく。
このような単純な進歩史観は、もう通用しません。
フクシマの悲劇を繰り返してならないでしょう。
バッタは草を食べて、自然を壊しています。
それは、生きるために必要なことだし、自然の営みの一環として組み込まれています。
バッタがまれに大量発生して草木を食べ尽くし、逆に絶滅寸前まで追い込まれることもまた、自然の営みだといえるでしょう。
だから、人間が生きるために自然を壊すのも自然の営みといえます。
その結末には、人類の滅亡が待っているかもしれません。
が、それもまた、自然の営みだといえるでしょう。
という話をそのまま受け入れるつもりがないなら、人間が生き続けられる環境を保つ必要があります。
それが、「持続可能性」とか「SDGs(Sustainable Development Goals)といわれる背景です。
では、ここで語られる《人間》とはどのような存在でしょうか。
近代では、《人間》は理性をもつ存在でした。
だから、私たちは、《人間》として、理性的な行動を求められます。
以前、私は、自分の乗っている車がいわゆるエコカーでないことを、今どきの人間として恥ずかしいよね、と言われたことがあります。
地球温暖化問題に対して心から賛同していなくても、自分のできることは少しでも、と行動するのが理性ある人間としての態度でしょう。
私はそうしてない、と批判されたわけです。
近代の《人間》が人間としてのあるべき姿だとしたら、現代は、一人一人の人間の具体的な生を大切にします。
それが、人間を《個》として尊重している、ということだからです。
そこには、生身の人間として生きる喜びや苦しみがあります。
ただ、その《人間》は常に正しいとはかぎりません。
しかし、本当に私たちが《個》であることを大切にしたいなら、そうした過ちすら含めて、実際に生きて暮らしている等身大の人間を考える基準に据えるしかありません。
そうした《人間》とのつながりを失ったとき、国家や科学が暴走することを私たちは歴史として見てきたのですから。
たとえば、、、
戦争と戦場は違います。
戦争を始める権力者は、戦争を語ります。
戦争の大義を説きます。
戦争を批判する人たちは、戦場を語ります。
戦場で傷ついた人たちの姿を告発します。
戦争には、さまざまな政治的な状況が絡んでいることでしょう。
が、私たちが憂うのは、戦争に大義があるかどうかではなく、戦場で実際に苦しんでいる人たちがいる、ということです。
リアルな映像がネットを通じて出回るのも、その傾向を後押ししています。
私たちは、近代人として、戦争をなくすべきだ、という理性的な願いをもっています。
が同時に、現代人として、戦場の痛みや苦しみ、という人間の具体的な生と結びつけて、それを実現しようとしています。
もし本当に私たちが自然環境を大切にすべきなら、それを具体的な日常生活に落とし込めなければならない、ということです。
《現実》
かつて、人間にとって《現実》は疑う余地のないものでした。
神や人間理性に支えられた、たしかなものでした。
しかし、その《現実》が揺らいでいます。
それは、人間が「個」として尊重され、《現実》が相対化されたから、だけではありません。
生成AIといわれる人工知能は、人間に代わって、新しい映像や作品を作り上げます。
それがAIによるものなのか、人間によるものなのか、区別できなくなる日は近いようです。
何が「ホンモノ」で、何が「ニセモノ」なのか。
そもそも「ホンモノ」とは何か、「ニセモノ」とは何か。
いやむしろ、そう問うことに意味があるのか。
私たちは問わなければならないし、問われなければならない時代になったといえます。
しかし、こうした問いは新しいものでしょうか。
たとえば、自然を大切に、と言いながら、部屋に入り込んだ小さな虫に大騒ぎする高校生。
きっと、その高校生にとって、自然を大切にしたい、ということも、でも虫は嫌い、ということも、本当のことなのでしょう。
私たちは、これまでも、こうした矛盾をはらんだ《現実》のなかで暮らしてきたようです。
結局、現代に生きる私たちが覚悟しなければならないのは、唯一絶対の《現実》などない、ということでしょうか。
近代は、「神から解放された時代」といわれます。
現代は、さらに、たしかな他者も、たしかな《現実》も失ってしまおうとしています。
それを、不確実で不安定な時代だと評することもできるでしょう。
が、そこには、人間と世界との、これまでにない、多様なかかわりが生まれてくるのではないでしょうか。
現代の本当の《豊かさ》の可能性は、きっとここにあります。
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