評論文読解のキーワード「自然」
1-2-8「自然」
ここでは、「自然」についてお話します。
①「世界=自然」か、それとも「世界=自然+人間」か
私たち人間は、自然とともに生きています。
自然と深くかかわりあって生きています。
自然は世界そのものであり、人間はその一部にすぎません。
そうした素朴な世界観を「コスモロジー」といいます。
近代になると、人間は主体として、自然を支配、利用してもよいと考えられるようになりました。
このデカルト二元論が、近代の《豊かさ》を支えています。
そこでは、人間と自然は切り離された別個の存在であり、自然は人間の支配の対象にすぎません。
暑いとすぐエアコンの温度を下げたがる人。
部屋の中で虫を見つけると、大騒ぎする人。
それは、自然から切り離された快適さにどっぷり浸かっている証拠です。
近代人の鏡ですね。
でもそれでいいのか、と問われているのが地球環境問題なのでしょう。
私たちに突きつけられているのは、人間と自然とのかかわり方なのです。
だから、人間と自然とのつながりを説くコスモロジーが唱えられるのです。
ちなみに漢字で書くと「宇宙論的世界観」。
難しげな言葉ですが、覚えておいて損はありません。
②「もともと」?
そもそも、「自然」はnatureの訳です。
おのずからある状態、〈ものごとがもともと もっている状態〉という意味です。
「内なる自然」「外なる自然」というのは、日本語よりも英語でよく見かける表現ですが、、、
「外なる自然」は、〈人間の外にもともと あるもの〉、いわゆる山や川の自然。
「内なる自然」は、〈人間の内にもともと あるもの〉、人間の生来の性質です。
でも気をつけなければならないのは、本当に「もともと」なのか、ということです。
たとえば、基本的人権は「自然権」だと言われます。
自然権とは〈人間がもともと もっている権利〉、生まれながらもっている人権、という意味です。
が、食うや食わずの貧しい生活をしている人たちにとって大切なことは、まず食うことであって、基本的人権などという高尚なことではないはずです。
自由や平等は、近代の《豊かさ》の下で成り立った人権であって、けっして「もともと」ではありません。
近代人だからこそ「もともと」だと思っているにすぎません。
「自然」は無色透明な言葉ではなく、近代的な価値観が染み込んでいるのです。
③どこまで行っても人間中心
こうした怪しさは、いわゆる「自然」を語る上でも起こります。
この場合「自然」は「人間」の対義語なので、正確に定義すると、〈人間の手が加わらない、この世界にもともとあるもの〉です。
が、たとえば、私たちは、稲穂の広がる田んぼを見て、整備・保全された里山を見て、「自然」を感じてしまいます。
もちろん、それらはきわめて人工的なものです。
にもかかわらず、それを「自然」だと思うなら、そこにある都合の良さは何でしょうか。
人間が主体である以上、たとえ「自然」について語っていても、人間中心主義から逃れることはできません。
地球環境問題がもし大問題であるならば、それは人間の生存が危ないからであって、白熊やペンギンのためではありません。
白熊やペンギンの生存が問題になるとしたら、結果的に人間にまで危害が及ぶからです。
さらに、そうした地球環境問題が先進国のエゴであることにも気づくべきです。
自然を汚したのは先進国であって、これから豊かになろうとしている国々がともに先進国の付けを払わなければならないのはなぜでしょう。
こうした自分勝手さを自民族中心主義(エスノセントリズムethnocentrism)といいますが、結局、その実態は人間中心主義が名前を変えただけのことです。
こうした側面を無視した奇麗事で地球環境問題を語るとき、議論は空疎なものになります。
たとえば、自分は《豊かさ》の中に身を置きながら、それを支えている現代文明を全否定したり、、、
人間が心を入れ替えれば、地球環境はどうにかできるという、傲慢さに陥ったり、、、
少なくとも、人間の暮らしを中心に据えるなら、地球環境問題は、現代の《豊かさ》との折り合いを視野に入れたものになるしかありません。
それが、「持続可能性」とか「SDGs」と言われる所以です。
いつのまにか「自然」ではなく「環境」という表現を使っていることに気づきましたか。
それは、「環境」とは〈人間 の周りの世界〉のことであり、「自然」を人間とのかかわりのなかでとらえた言葉だからです。
大前 誠司 編著
1,430円・四六判・328ページ